Tag: オピニオン

188月

原発がある海の常軌を逸した美しさについて

この夏は、縁あって、1週間ほどかけて、福井県に滞在しました。

子どもの頃からずっと関東在住の私にとって、もっとも印象深かったのは、若狭〜敦賀半島にかけての、海の綺麗さなんです。

 

関東の人間の日本海のイメージを覆す、水晶浜海水浴場

中でも衝撃的だったのは、敦賀半島西部の『水晶浜海水浴場』でした。
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関東の人間が抱く、日本海のイメージというと、冷たそうな深い青色をしていて、波が荒くて、ゴツゴツとした岩場が多くて……という感じではないでしょうか。
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すべてがそうではないにせよ、少なくとも日本海に海水浴をしに行く、という頭はまったくありませんでした。
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だから、車で走っていて、水晶浜が視界に飛び込んできたときには、あまりに興奮して、「おおっ!!」と叫んでしまったくらいです。
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象徴的な建造物=原子炉建屋

ところが、この水晶浜海水浴場には、様々な意味で “象徴的なもの” が存在します。
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背景をよく見てください。あの、独特の美しい形状をした、建築物は何なのか。
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画像のコントラストを高めて、建物をくっきりさせてみました。どこか見た記憶がある気がするけれど、街中ではまず見かけないはずです。
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地図を見ればわかりますが。

美浜発電所、つまり美浜原発の原子炉建屋なんです。

その距離、わずか3km。

直線距離にしたら、1500mもないかもしれません。冗談ではなく、泳いで行くことも可能でしょう。

 

透明度抜群の海と、白い砂浜の海岸線の風景に、違和感なく溶け込む美浜発電所

水晶浜が美浜原発の近くだという事実は、行ってみようと決める前から知っていました。

でも、こんなにも無防備に見えてしまうものだとは思いませんでした。

しかも、美しい。

原発にアレルギーを持たない私にとっては、これが正直な感想でした。

水晶浜という名のとおりの、透明度抜群の海と、白い砂浜の海岸線に、違和感なく、美しく溶け込んでいるんです。
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前衛アートのような、常軌を逸した美しさ

そして、ふと「あれが原子炉建屋なんだ」とわかると、常軌を逸した美しさを感じずにはいられませんでした。

もちろん、ただのセンチメンタリズムではあるとは思います。

でも、それほどに、ここの海は綺麗です。
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波打ち際でちょっと箱メガネで覗いただけで、シロギスやクサフグやが泳ぐのが眺められます。

5歳のゆいは、浮き輪につかまりながら、楽しそうにあっちこっち覗き回っていました。
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それでいて、人はほとんどいません。
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だから快適この上ないんです。

湘南の、ゴミで溢れた海岸、泥水のような海に遊びに行くのが、バカみたいです。

しかも、人がほとんどいないにもかかわらず、寂れた印象があるわけでもありません。

これは、原発が立地する自治体から共通して得られる印象です。

原発のある過疎地だからこそ、守られるものもあるということなんでしょうか。

 
特に結論はありません。

ただ、思ったこと、感じたこと、驚いたこと、心動かされたことを、率直に記事にしてみました。

機会があったら、ぜひ一度は、この前衛アートのような海水浴場に行ってみることをお勧めします。

174月

担任の入学式欠席問題|公務員は元々ブラックな職種である、という前提から根本的に考え直さなくてはいけない

公務員はどうあるべきなのか? という本質的な問題提起に直面しているように感じます。

【主張】担任の入学式欠席 教師が優先すべきは何か+(1/2ページ) – MSN産経ニュース

埼玉県の県立高校で、新入生のクラスを受け持つ担任教諭が入学式を欠席し、息子の入学式に出ていた。同様の理由で担任不在だった入学式がほかの県立高校でもあり、県教育長は校長会で新入生や保護者に不安を与えないよう指示した。

 

個人的にはアリ。だが「本来どうあるべきなのか?」は別問題

「現実に目の前の問題にどう対処すべきか」と「本来どうあるのが理想なのか」は、分けて考える必要があります。

前者の観点から言えば、私は “我が子の入学式に出席する” という担任の選択はアリだと思います。ただ、幼稚園や小学校ならともかく、高校の入学式なので、私なら出席するかどうかは、こどもの判断に委ねます。

担当クラスの入学式に出席できないことが問題なのであれば、入学式など行事が重なる可能性が高いのは事前にわかっているので、こどもがいる教師から申告があった場合に、新入学クラスを担当させない配慮をするなどの手段が考えられます。いくらでもやりようはあるでしょう。

ただ、本来どうあるのが理想なのか?という話になると、これは一筋縄ではいきません。

 

公務員はもともとブラックな職種

私は、公務員というのは、最も労働条件の劣悪な職種の一つだと思っています。

なぜなら、“私” よりも “公” を優先する役割だからです。

ブラック企業と比較すれば、労働時間が短く、給料も多くもらっている、というケースもあるかもしれません。

が、ブラック企業では、究極の選択を迫られることはありません。嫌なら嫌と言って逃げ出してしまえばいいからです(逃げ出せない人もいるかもしれませんが、それはまた別の問題)。

でも、おそらく公務員という立場では、逃げ出そうとはなかなか思えないはずです。

たとえば、大地震が起きた。誰かが、津波から避難するように呼び掛けなければいけない。

こうした非常事態に「自分がやらなければ、大勢の住民が危険にさらされてしまう」と責任を背負わざるをえないのが、公務員という立場です。

 

誰かがやらなければならない

「入学式の出席と、災害対応では、深刻さの程度がまったく違う」という意見もあるでしょう。

入学式は生命にかかわる問題ではないのだから、“私” を取ったっていいじゃないか、と。私も個人的にはそう思います。

しかしながら、「違うのは程度だけ」というのもまた事実です。構造的には同じ問題なのです。

社会を維持し、よりよくするために、ときには “私” よりも “公” を優先し、誰かが犠牲心を持って取り組まなければいけない。

そう、誰かがやらなければいけないんです。

もし、誰もやる人がいなければ、私たちは暮らしにくくなるし、教育の水準が落ちるかもしれないし、いざというときに危険にさらされるかもしれません。

 

私たちは公務員に敬意を払うべき

いわゆるバブル崩壊後からでしょうか?

公務員は安定した職業で、定時に帰宅でき、楽な仕事にもかかわらず高給取りである、というような認識が広がってきたのは。

公務員は批判の矢面に立たされやすい現実があります。

が、実際には、普段は定時に帰宅できたとしても、緊急事態には家族よりも “公” を優先しなければいけません。

誰もが “私” を優先したいと感じる状況で、“公” を選択せざるをえない役割なんです。

私は、“公” のために働いてくれる公務員は、高給でまったく問題ないと考えています。それだけの役割を担っていると思うからです。

そして我々は、“公” のために働いてくれる公務員に、敬意を払うべきではないのでしょうか。

消防士なら、わかりやすいかもしれませんね。

真夏の炎天下だろうが、深夜だろうが、火事が起きれば何をも差し置いて駆けつけてくれる人たち。

消防士を見下したり、高給取りだとバッシングする人は少ないはずです。

実は、役所の職員だって、教師だって、消防士ほどのわかりやすさはありませんが、“公” のために同じ役割を担っています。

 

教師の役割を整理すべき時期にきている

私たちが考えるべきは、「担当クラスの入学式を欠席して我が子の入学式に出席するのを許すべきかどうか」などという表面的な問題ではないでしょう。

そもそも、現代社会において、教師はどんな役割を担うべきなのか?

私たちは教師に何を求めるのか?

知人や親戚縁者を見ている限り、現場ではまだ「“私” を犠牲にしても、こどもたちのために」という教師は少なくないように見えます。

しかし実は、国民の多くは、教師にそこまでの奉仕を求めていないのかもしれません。

だとしたら、教師の(文字通り)奉仕が担っていた部分を、誰がどのように代替するのか。代替はそもそも必要なのかどうか。

教師の役割、教育のあり方、あるいはもっと根本的に公務員のあり方そのものを、真剣に考え直す時期にきているように感じます。

183月

「こども21時でスマホ禁止」では絶対に問題は解決しない

だから私は、“義務教育だけが正解” だと過信・盲信できないのだと思いました。

責任を押し付け合って、こどものためにベストを尽くさないように見える教育現場で、自分のこどもに育ってほしいと思う親なんか、いるんでしょうか?

 

愛知県刈谷市の「こども21時でスマホ禁止」概要

愛知県刈谷市の全小中学校で、生徒・児童による夜21時以降のスマートフォン・携帯電話の利用が禁止されることになりました。

子ども21時でスマホ禁止、刈谷市が大胆な試み。LINE既読スルー問題、保護者責任を校長が明かす – Engadget Japanese

現在生徒らのコミュニケーションにおいて、LINEやメールのメッセージにすぐに返答をしなければ、翌日学校で「無視した」「スルーした」などと、攻められるそうです。大橋校長は「ごく普通の子どもの中には、無視やスルーが嫌で常にスマートフォンを身近なところに置いている子がいます。そこまでやりたくないのにって子どももいるんです。そうした子どもたちに、21時以降は親にスマホを取り上げられるから、と言い訳ができる状況を作りたいんです」と述べています。

スマートフォンやSNS特有の問題から生徒・児童を守るため、というのが建前のようです。

 

生徒や児童にとってベストだとは思わない

上記『Engadget Japanese』のライターHiromu Tsuda氏は、

もしかするとこの取り組み、生徒や児童にとって良い結果になるのかもしれません。

と書いています。

対処療法としては、ベターな結果になる可能性はあるかもしれません。私はまだ小学生のこどもがいる当事者ではないので(上の子が再来年に小学生になる)、想像力を上手く働かせられません。

が、ベストな結果には絶対にならない事実だけは、はっきりとわかります。なぜなら、問題の本質を見て見ないフリしているからです。

すなわち、「こども21時でスマホ禁止」は、花粉症による炎症を、強力な薬で押さえ込もうとしているだけでしかありません。

花粉症の人は、本当は、副作用で眠気が出たり、倦怠感が出たりするような薬を飲み続けたいのではなく、花粉症を根治したいんです。

花粉症で言えば、アレルギー体質そのものを解消できるかどうかが、問題の本質です。

 

これはスマホの問題でなく、家庭と教育現場のすれ違いの問題

「こども21時でスマホ禁止」の問題の本質は、校長の言葉に集約されています。

「保護者は自分で子どものために契約しておきながら、トラブルがあれば問題を学校に持ち込みます。子どもに持たせるために契約したのは保護者でありながら学校にです。これでは責任の所在が本末転倒です」

『Engadget Japanese』の記事が正確であると仮定すれば、「こども21時でスマホ禁止」は、家庭に責任を持たせる目的で生まれたことになります。

これを見て「もっともな言い分だ」という意見は、私にはよくわかりません。

親と教育現場が責任を擦り付け合っているだけでしかないからです。これはスマホの利用法の問題でなく、家庭と教育現場の関係性の問題です。本質は大人同士の責任の押し付け合いの問題でしかありません。

私は率直に「こどもを育てる責任はどこに存在しているんだろうか」と感じました。こんなふうに責任を擦り付け合うなかで、こどもを育てたいと思う親なんかいるんでしょうか。

スマホやLINEの問題は、家庭が悪いのでしょうか。それとも、教師や教育現場が悪いのでしょうか。

答は明確で、どちらも悪くないんです。

家庭は家庭で、教師は教師で、置かれた状況で精一杯に取り組んでいるはずです。

でも、それでもどうしてもうまくいかずに、「義務教育なんだから学校でやれ」「ここからこっちは家庭の責任だろ」と軋轢が生まれてしまっています。

 

問題が解決しないのは関係ができていないから

互いにうまくいっていないのであれば、助け合えばいいのに、罵り合ってしまうのはなぜか。

家庭と教育現場の間に壁があるからです。コミュニケーション不足と言い換えてもいい。

ダイアローグ、ワールドカフェ、あるいはフューチャーセッションといった方法論があります。

行政でも企業でもそうですが、なにか物事を前に進めようとするときに足かせになるのは、実は外的要因というよりも、利害関係者同士の冷えきった関係や無関心です。

Aさんの技術力と、Bさんの調整力があれば、物事は100倍早く前進するのに、別々に活動する。そして当然のごとく、Aさんは調整がうまくいかず、Bさんは技術不足で、遅々として進まない。

なぜ足りない要素を補おうとしないのか。しかも、同じ志を持っていて、同じ活動をしている他人が存在するとわかっているのに。

単に、人間関係がない、昔からそうしている、テリトリーが違う(縄張り意識が邪魔をする)。酷いときはプライドといった程度のバカげた理由なんです。

 

地域に開かれた学校を目指す、町田市の小学校の事例

ではどうすればいいか。同じ志を持った人を一か所に集めて、対話を重ねて、お互いの内に秘めた思いを知り合う。信頼関係を築く。

これだけで、嘘のようにすべてが好転します。

教育をより良くしよう、こどもたちを大切に育てよう、という思いでは、家庭も教育現場も実は同じ。コミュニケーションがとれれば、「なんだ、ぼくもそう思っていたんだよ。じゃあ一緒にやろうよ。こうしたらいいんじゃない?」という空気が生まれるからです。

実際に、そういう試みがなされている例があります。

「子ども× I’m OK!」in Child Future Session Week レポート | FutureCenterNEWS JAPAN

「子ども× I’m OK!」では、町田市の小学校の先生と、地域の人々が集まって、こどもが自己肯定感を持つためにはどうしたらいいのか?というテーマで対話がなされました。

 

家庭と教育現場が一丸となれば問題は解決したも同じ

主催の中村美央さん(小学校の先生)は近い将来、このような対話をクラスの保護者の方たちとしたい、と言っていました。

これは、同職業の方からも「勇気がある」と驚きの声が上がっていたほどで、対話によって育まれる空気、生まれる成果を知っていてこそです。

たとえば会社の同僚でも、一見近寄りがたい人だけど飲み会で同席したら印象が変わった、というケースは珍しくないはずです。互いに理解しあっていれば、モンスターペアレントだ、問題教師だ、と罵り合うケースは間違いなく激減します。

さらに、なにか問題や課題が発生したときには、家庭と教育現場が一丸となって、解決策を考えていく。

スマホの利用法で問題が発生したのなら、一方的に「こうしてください」と押し付けるのでなく、家庭と学校の事情や、お互いの考えを共有しつつ、一緒に対応方法を考えていく。

家庭も教育現場も、互いに責任を引き受け合う形で、学校をつくっていく。

 

理想が明確でなければ複雑な問題は解決できない

もちろんこれは理想です。

でも、理想を明確にしなければ、このように根が深い問題は、根本的な解決が不可能なのもまた事実。延々と不満を募らせながら、互いに責任を擦り付け合う道しか残されていません。

私が義務教育以外のオルタナティブ教育に魅力を感じるのは、単に画一的な教育ではないという魅力の他に、教育者も家庭も「こどもを育てる」に本気で取り組んでいる雰囲気を感じるからなのだと、ふと気づきました。

どうでもいいような理由で、こどもたちを二の次にしてしまう義務教育なら、こっちから願い下げです。

222月

森喜朗のパラリンピック発言を問題視する人は、自らの差別意識に気づいていない

森喜朗・元総理/東京五輪組織委員会会長の、パラリンピックに関する発言が、差別的であると批判されているようです。

森氏そのものの是非、好き嫌いはともかく、私はむしろ、批判者の側にひそむ差別意識のほうを話題にしたいと感じました。

 

森喜朗です。少し寝不足ですが私も。一昨昨日ですか、ソチから帰ってきたばかりでもあります。ソチというのは、とても良いとこです。しかし、足の回りが非常に悪いんですね。ロシアっていう国は、サービス精神がよくない国なんですね。もともと長い間社会主義国ですから。来たけりゃ来いよという感じです。モスクワから飛行機で2時間もちょっとすればソチへ行くんですけど、モスクワに着いても、モスクワからの接続便がないんですね。サンクトペテルブルク行ったり、あるいはいくつかの都市を通って行ったり、なかなかその日のうちに着かないんですね。計画的にわざと時間を接続させてないんじゃないかなと。そこに皆で泊まれば、そちらでお金が落ちますから。そうしてんじゃないかなということを思うぐらい、連絡の便がとても悪いですね。悪いんです。まあ、うまく乗り合わせても、27時間ぐらいかかりますね。東京からソチに着くまで。

私は5日の日に行きまして、開会式臨んで、いくつかの会議をやって。何しろオリンピックの役員になって、新参者でありますので、ご挨拶が多かったんですが、あちらこちらみなさんにご挨拶をして帰ってきました。もう一遍、またこれ3月に入りますと、パラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行ってて、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。今また、その日程組んでおるんですけど、「ああ、また20何時間以上も時間かけて行くのかな」と思うと、ほんとに暗いですね。

森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し

 

森喜朗はロシアの交通の便の悪さを嘆いている

全文を読めばわかるとおり、「あまりにロシア国内の交通の便が悪く、時間がかかり過ぎるので、もう一度行くのは億劫だ」というのが、批判されているパラリンピック発言の主旨です。

東京五輪組織委員会会長の立場から言って、他国に対してネガティブな発言をしたり、五輪に行くのを面倒がったりするのはいかがなものか、という指摘はあるでしょうが、今回の記事の本旨からは外れるので、脇においておきます。

多くの人が「差別的だ」と批判しているのは、次の一節です。

もう一遍、またこれ3月に入りますと、パラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行ってて、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。今また、その日程組んでおるんですけど、「ああ、また20何時間以上も時間かけて行くのかな」と思うと、ほんとに暗いですね。

 

差別的だと判断しているのは、批判者の差別意識である

森喜朗氏が、障害者に対して、どんな価値観を持っているのかは、ご本人が話さなければわかりません。少なくとも、この書き起こしを見る限りでは、

オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行ってて、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。

森喜朗氏自身の意見ではなく、そういうふうに誰かに言われた、あるいは他人の手によって予定が組まれた、という状況しかわかりません。もちろん、自分の考えを、他人の責任に転嫁した可能性もあるかもしれないですが、断定できる要素はどこにもありません。

にもかかわらず、これを森喜朗の人間的資質に基づく失言である、と歪曲して捉える方が少なからずいらっしゃいます。

なぜ歪曲してしまうのか。

何しろ、「神の国」発言をきっかけに総理を辞職した方ですから、先入観は一つの理由としてあるでしょう。あいつなら差別的な発言もするだろう、と。

そしてもう一つ無視できないのは、パラリンピック発言を批判する人の内側に、無意識に存在している、障害者への差別意識です。

 

特別扱いする限り、障害者差別はなくならない

「パラリンピック発言を批判する人は、パラリンピックが障害者の祭典であるからこそ、批判した」という見解に、異論はないはずです。

しかし、これは変ではないでしょうか。

たとえば、順番が逆で、パラリンピックが先に開催されていたらどうでしょうか。次にオリンピックに行く予定になっているんだけれども、ロシアの交通の便が悪いので、億劫だ、という発言だったとしたら。

差別発言だと問題にする人はいなかったはずです(前述のとおり、東京五輪組織委員会会長の立場から言って、五輪に行くのを面倒がるのはとんでもない、という批判はあるでしょうが)。

なぜ、障害者の祭典であるパラリンピックは、特別な配慮がされなければいけないのでしょうか?

“特別だ” と考えている時点で、そこには “障害者は別である” という意識が、必ず存在しています。

私たちが「障害者には特別な配慮をしなければいけない」と考えている限り、日本社会から障害者差別がなくなることはありません(もちろん、福祉の制度や設備を充実させるべき、という見解に異論はありません。ただ日本は、お金でできることに偏りすぎている)。

たとえば、会社でも同じでしょう。新人だから教えてあげて、ミスしても大目に見てあげて、と特別扱いされているうちは、なんだか同じ職場で働く本当の仲間になれた気がしない。

 

日本は「障害者は私たちとは違う」という認識が自然に育つ国

ちょうど先日、

車いすを見て「手伝えない理由」を探す私たち

という記事を書いたところでした。

小学校の特殊学級(特別支援学級)をはじめ、ハンディを持つ人を一か所に集め、特別に扱う仕組みだけしか存在しないような日本社会では、「あ、彼らは自分たちとは違うんだ」という認識が、こどもの頃から自然に育っていきます。

結果として私たちは、「車いすを押すのは駅員さんの仕事であって、私たちの仕事じゃない。」と、欧米諸国からみれば、野蛮としか言いようがない、ガラパゴス的な福祉の価値観を、普通だと思い込むようになっています。

私は、差別してはいけない、差別的な人は悪い、と良い子ぶって批判するつもりはありません。私自身、差別意識を自然に持ちながら育った一人です。

パラリンピック発言の批判者を否定したいのではなく、「社会の仕組みそのものが、「障害者は別」という意識を自然に育み、マイノリティが排除される結果になってしまっているんじゃないですか?」と問いかけたいと思って、この記事を書きました。

前段の記事でも引用しているんですが、「ピープルデザイン研究所」須藤シンジさんの言葉をもう一度、紹介します。

駅のホームで、車いすの人を、駅員さんが3人がかりで電車に乗せている風景を、ご覧になったことがあると思います。

僕、いいことだと思っていたんです。

ところが、あんなことをやっている国は、実は日本ぐらいなんですよね。

車いすの人がいたら、車いすを押すのは駅員さんの仕事であって、私たちの仕事じゃない。私がなんかやっちゃって、クレームでも受けたらどうしようとか、頭が働いちゃうじゃないですか。あるいは、白い杖をついた人が、交差点にいる。声を掛けたいんだけど、ちょっとどうしようかな、とモジモジ感があるじゃないですか。

(中略)

結論を言えば、困っている人がいたら、手伝えばいいんですよ。でも、その一言が出ない。出ない理由を探し始めるんです。

※『こどもみらいdesignフォーラム 2014』須藤シンジさんによるオープニングトークより

 

マイノリティを排除しない

解決するには、障害者を始めとするマイノリティを、どこかに押し込めようとしないことです。

身の回りにいない、目の前にいないからこそ、「彼らは私たちとは違う」と感じ、特別な配慮が必要だという強迫観念に晒されます。

自分では差別意識を持っていないと思っていても、気がつかないうちにマイノリティを排除してしまいます。いつまでも差別はなくなりません。

たとえば、こどもみらいdesignフォーラム 2014で、矢野デイビッドさんが言っていたのですが、ガーナでは、自然に助け合い、面倒を見られる者が面倒を見るので、こどもたちが集団でいると、障害児が混じっていても、しばらくは気づかないほどだそうです。

日本ではどうでしょうか。障害児がいて、存在に気づかないなど、まずあり得ません。きっと彼らは、大勢の中にいても、浮いて見えてしまうのではないでしょうか。

 

“誰でも一緒にいていい社会” がいい

なぜ、福祉関係の活動をしているわけでもない私が、これを声に出して言いたいのか。

答はシンプルで、誰でも一緒にいていい社会のほうが、居心地のいい社会だと思うからです。

マイノリティとは、なにも、障害や、セクシュアリティや、皮膚の色だけではないんです。

趣味や、教育に対する考え方や、働き方の価値観。自分の考え方や、価値観が、ちょっと他人と違うからと言って、生きにくくなってしまうのは、嫌だと思いませんか?

多様性のある社会。自分らしく生きられる社会。障害者に対する意識も、そこに繋がる一つの要素だと考えています。

212月

車いすを見て「手伝えない理由」を探す私たち

「ピープルデザイン研究所」須藤シンジさんの話がとても興味深かったので、共有します。

“困っている人がいれば、手伝ってあげればいい。でも我々は、「下手に手伝って迷惑をかけてしまったらどうしよう」など、できない理由を探してしまう” という指摘は、目から鱗が落ちる思いでした。

 

車いすを見て「手伝えない理由」を探す私たち

2月11日に、こどもみらい探求社(共同代表:小笠原舞、小竹めぐみ)によるイベント、『こどもみらいdesignフォーラム 2014』の取材に行ってきました。

スピーカーの面々が魅力的で、本当におもしろかったのですが、中でも個人的にインパクトを感じたのが、特定非営利活動法人「ピープルデザイン研究所」須藤シンジさんの話でした。

ピープルデザイン研究所

『こどもみらいdesignフォーラム 2014 〜人権って何だろう?〜』レポート

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駅のホームで、車いすの人を、駅員さんが3人がかりで電車に乗せている風景を、ご覧になったことがあると思います。

僕、いいことだと思っていたんです。

ところが、あんなことをやっている国は、実は日本ぐらいなんですよね。

車いすの人がいたら、車いすを押すのは駅員さんの仕事であって、私たちの仕事じゃない。私がなんかやっちゃって、クレームでも受けたらどうしようとか、頭が働いちゃうじゃないですか。あるいは、白い杖をついた人が、交差点にいる。声を掛けたいんだけど、ちょっとどうしようかな、とモジモジ感があるじゃないですか。

(中略)

結論を言えば、困っている人がいたら、手伝えばいいんですよ。でも、その一言が出ない。出ない理由を探し始めるんです。

※『こどもみらいdesignフォーラム 2014』須藤シンジさんによるオープニングトークより

私自身、まさに思い当たります。「なるほど……!」以外の言葉が浮かびませんでした。

 

障害者は私たちとは違う、という認識が自然に育つ日本

これも須藤シンジさんが言及していた話題なのですが、小学校にあった “特殊学級” を覚えているでしょうか。2006年からは、特別支援学級と名を変えています。学校教育法では、

・知的障害者
・肢体不自由者
・身体虚弱者
・弱視者
・難聴者
・その他障害のある者で、特別支援学級において教育を行うことが適当なもの

のために設置できるもの、と規定されています。

特殊学級だろうが、特別支援学級だろうが、共通しているのは、“障害者など、ハンディを抱えている人は特別である” という強烈なイメージです。

彼らは健常者とは別であり、専門家による特別なサポートを必要としている。だから、独立した学級を作ってあげなければならない、と。

誰もが教育を受けられるという意味では、平等な仕組みかもしれません。ハンディに添って、パーソナライズされた教育が提供されるのだとしたら素晴らしいし(実態は知りません)、経済的に豊かな国だからこそできるとも言えます。

一方で、こうしてハンディを持つ人を一か所に集め、特別に扱う仕組みを見れば、小学校に通うこどもたちは「あ、彼らは自分たちとは違うんだ」という認識を持ちます。

誰かが差別意識を刷り込んでいるわけでもなく、自然と「腫れ物をさわるように」接するようになるんです。

 

ハンディは個性でしかない

私は特別に福祉に関わってきた人間ではありません。が、ただ一つ接点があったのは、小学生から大学生のあいだ行っていたキャンプでした。季節ごとのイベントもいくつかありました。

大人こども含め30〜40名ほどのコミュニティの中で、障害者(主に知的障害者)が占める割合は、1割か2割くらいだったでしょうか。障害者ばかりというわけでもなく、内閣府による平成25年版障害者白書によると、人口の6%がなんらかの障害を有しているそうなので、構成としてはおおよそ世の中の状況を反映していたコミュニティだったのかな、と思っています。

キャンプに参加していて、障害者を特別扱いする、あるいは腫れ物をさわるように接する空気は、まったくありませんでした。

もちろん、川で遊んでいて溺れないように注意するだとか、電車で移動する際には、はぐれないように気をつけるだとか、他人に過度に迷惑をかけないように監督するだとか、ということはあります。

が、これって、健常者のこどもでも同じなんですよね。

キャンプなので、まずは自分が楽しむのが大前提。その中で、必要な助け合いをする。年長者は年下の面倒を見る。知的障害者は、たとえば集団行動をするときに、健常者の小学生よりは多少手がかかったりはするわけですが、でもそれだけの話でした。

 

障害者がこわいのは、障害者が目の前にいないから

障害者ってなんだかこわい、というイメージを持つ人は少なくありません。

知的障害者は特に、言語による意思の疎通を苦手とするケースがありますし、奇声を発したり、独り言をつぶやき続けたり、という行動をする人もいます。

それでも、キャンプに行っていたコミュニティで、共存の空気が育まれていた理由は、単に、常に障害者が目の前にいたからです。たったそれだけの理由です。

構成メンバーは、福祉関係で活動している人もいましたけど、一部です。普段は障害者とかかわる機会がなく、「障害者? あんまりかかわりたくないな」と感じている人もいたはずです。

私自身、障害者と積極的に関わりたいという意識は、特にありませんでした。キャンプが楽しいから参加していたんです。こどもや若者は特に、同じ感覚の人が多かったはずです。

人間、“わからない” ということがすごく怖い、という事実があります。障害者が隔離されているに等しい社会では、表面上からは窺い知れない、あるいは見た目が大きく違う彼らの存在は、未開の地で出くわした原住民と同じです。「何をされるかわからない」という偏見につながります。

でも、障害者が目の前にいて、日常的に接していれば、未知の恐怖にもとづく偏見は消えてなくなります。

もちろん、こどもが嫌いな人がいるのと同じで、知的障害者を相手にするのが面倒だという人はいるでしょうが、それは尊重されるべきで、問題ではありません。

 

誰でも一緒にいられる環境を作ってこそ

私たちは、障害者を差別しているというより、障害者は私たちとは別であり、見ず知らずの(あるいは、専門職でない)自分たちは関わるべきではない、という感覚を、無意識のうちに育んでいます。

原因は、目の前に障害者がいないからです。

障害者用・高齢者用の設備を整える、だけをやっていては、いつまでも変わらない。

誰でも一緒にいられる環境を作ってこそ、多様性の豊かな社会が実現するのだと感じました。

 

蛇足:ベビーカー問題も似た構造がある

先日、みなとフューチャーセンターの『港区を子育てを楽しめる街No.1に』セッションの取材に行ったところ、赤ちゃん連れやベビーカーでの移動が大変だという話題になり、ある方が、

日本に住んでいる外国人が口を揃えて不満を訴えるのは、日本の男性なんです。外国では、女性が重いスーツケースを持って、階段を一人で降りるなんて状況は、まずあり得ないんです。周囲の男性が、わざわざ走って駆けつけて助けてくれるんですよ。でも、日本の男性はまったく何もしない。

と憤っていました。つまり、階段があっても、誰もベビーカーを一緒に持ってくれる人がいない、と。これも、車いすを見て手伝えない理由を探すのと、構造的に似ています。

日本社会には、男性が育児に主体的にかかわりにくい仕組みがあります。育児当事者(ここでは多くの場合、母親)以外は、子育てに目を向けない。

だからこそ、ひとりで赤ちゃんを連れて出歩く大変さだったり、ベビーカーでの移動の不便さに思い至らず、手伝ってあげようという発想が出てこない。

バリアフリーだなんだと、いくらスロープやエレベータを整備していったところで、税金は無限ではありません。大都市はできても、地方都市では手が回りきらないかもしれない。大都市でも、細かいすべてを網羅するのは不可能。

困っている人がいるからと短絡的に対処療法を施しても、ほとんど意味がないわけです。社会全体でこどもを大切にする風潮が育ってこそ、解決できる。力の注ぎどころを間違えないようにしなければいけないですね。

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