公務員はどうあるべきなのか? という本質的な問題提起に直面しているように感じます。
【主張】担任の入学式欠席 教師が優先すべきは何か+(1/2ページ) – MSN産経ニュース
埼玉県の県立高校で、新入生のクラスを受け持つ担任教諭が入学式を欠席し、息子の入学式に出ていた。同様の理由で担任不在だった入学式がほかの県立高校でもあり、県教育長は校長会で新入生や保護者に不安を与えないよう指示した。
個人的にはアリ。だが「本来どうあるべきなのか?」は別問題
「現実に目の前の問題にどう対処すべきか」と「本来どうあるのが理想なのか」は、分けて考える必要があります。
前者の観点から言えば、私は “我が子の入学式に出席する” という担任の選択はアリだと思います。ただ、幼稚園や小学校ならともかく、高校の入学式なので、私なら出席するかどうかは、こどもの判断に委ねます。
担当クラスの入学式に出席できないことが問題なのであれば、入学式など行事が重なる可能性が高いのは事前にわかっているので、こどもがいる教師から申告があった場合に、新入学クラスを担当させない配慮をするなどの手段が考えられます。いくらでもやりようはあるでしょう。
ただ、本来どうあるのが理想なのか?という話になると、これは一筋縄ではいきません。
公務員はもともとブラックな職種
私は、公務員というのは、最も労働条件の劣悪な職種の一つだと思っています。
なぜなら、“私” よりも “公” を優先する役割だからです。
ブラック企業と比較すれば、労働時間が短く、給料も多くもらっている、というケースもあるかもしれません。
が、ブラック企業では、究極の選択を迫られることはありません。嫌なら嫌と言って逃げ出してしまえばいいからです(逃げ出せない人もいるかもしれませんが、それはまた別の問題)。
でも、おそらく公務員という立場では、逃げ出そうとはなかなか思えないはずです。
たとえば、大地震が起きた。誰かが、津波から避難するように呼び掛けなければいけない。
こうした非常事態に「自分がやらなければ、大勢の住民が危険にさらされてしまう」と責任を背負わざるをえないのが、公務員という立場です。
誰かがやらなければならない
「入学式の出席と、災害対応では、深刻さの程度がまったく違う」という意見もあるでしょう。
入学式は生命にかかわる問題ではないのだから、“私” を取ったっていいじゃないか、と。私も個人的にはそう思います。
しかしながら、「違うのは程度だけ」というのもまた事実です。構造的には同じ問題なのです。
社会を維持し、よりよくするために、ときには “私” よりも “公” を優先し、誰かが犠牲心を持って取り組まなければいけない。
そう、誰かがやらなければいけないんです。
もし、誰もやる人がいなければ、私たちは暮らしにくくなるし、教育の水準が落ちるかもしれないし、いざというときに危険にさらされるかもしれません。
私たちは公務員に敬意を払うべき
いわゆるバブル崩壊後からでしょうか?
公務員は安定した職業で、定時に帰宅でき、楽な仕事にもかかわらず高給取りである、というような認識が広がってきたのは。
公務員は批判の矢面に立たされやすい現実があります。
が、実際には、普段は定時に帰宅できたとしても、緊急事態には家族よりも “公” を優先しなければいけません。
誰もが “私” を優先したいと感じる状況で、“公” を選択せざるをえない役割なんです。
私は、“公” のために働いてくれる公務員は、高給でまったく問題ないと考えています。それだけの役割を担っていると思うからです。
そして我々は、“公” のために働いてくれる公務員に、敬意を払うべきではないのでしょうか。
消防士なら、わかりやすいかもしれませんね。
真夏の炎天下だろうが、深夜だろうが、火事が起きれば何をも差し置いて駆けつけてくれる人たち。
消防士を見下したり、高給取りだとバッシングする人は少ないはずです。
実は、役所の職員だって、教師だって、消防士ほどのわかりやすさはありませんが、“公” のために同じ役割を担っています。
教師の役割を整理すべき時期にきている
私たちが考えるべきは、「担当クラスの入学式を欠席して我が子の入学式に出席するのを許すべきかどうか」などという表面的な問題ではないでしょう。
そもそも、現代社会において、教師はどんな役割を担うべきなのか?
私たちは教師に何を求めるのか?
知人や親戚縁者を見ている限り、現場ではまだ「“私” を犠牲にしても、こどもたちのために」という教師は少なくないように見えます。
しかし実は、国民の多くは、教師にそこまでの奉仕を求めていないのかもしれません。
だとしたら、教師の(文字通り)奉仕が担っていた部分を、誰がどのように代替するのか。代替はそもそも必要なのかどうか。
教師の役割、教育のあり方、あるいはもっと根本的に公務員のあり方そのものを、真剣に考え直す時期にきているように感じます。