選挙前に、21世紀に生きる私たちが理解しておくべき7つの事実

1. 私たち(の大半)は個人主義である

国政や政治、行政について、私たちが語るとき、あまりにも批判や文句が多いとは思いませんか。

そんなにも、政治家や官僚、行政に携わる公務員たちは悪人なのでしょうか。

あるいは、100%必ず間違うのでしょうか。

もちろん、彼らがすべて善人で、いつも正しいとは言いませんが、これには実はカラクリがあります。

私たちのほとんどは、個人主義なのです。

え、そんなことはない?

では、

「あなた一人が我慢しさえすれば、みんなは幸せになれるんだ」

と言われて、しぶしぶでも納得できますか?

きっと、ほとんどの人は、そうではないはずです。

個人主義とは、「わがまま」「身勝手」とは、根本的に異なります。

“一人ひとりの幸福の上に、日本という国の豊かさや発展がある”

という考え方・立場を、個人主義と呼びます。

2. 個人主義が支配的となるのは2000年以降

焼け野原となった、戦後の日本を、思い浮かべてください。

当時、多くの日本人は、“欧米に追いつけ追い越せ” という目標を、共有していたはずです。

加えて、情報流通は、テレビ・新聞・ラジオ等の、限られたマスメディアが、一手に握っていました。

あらゆる情報を、マスメディアというフィルターを通して、受け取っていた時代です。

ところが、高度経済成長を経て、1968年に、GNPが世界第2位となると、少々状況が変わってきます。

“欧米に追いつけ追い越せ” という目標をほぼ達成してしまい、上には国としての規模が違うアメリカしかいない。

豊かさや娯楽を手に入れたうえに、大義名分も失うと、国という集団を最優先に考える人は減り、自分自身や、自分の家族の幸せを最優先に考える人が、増え始めます。

決定打となったのが、2000年を境に急激に普及した、インターネットによる、情報流通の劇的な変化です。

今や、誰もが自由に、自分の意見や感想、愚痴から文句に至るまで、世界中に発信できる時代です。

私たちが「周囲と同じでなければいけない」という幻想から解き放たれ、自分らしさを追求するようになったのは、周知のとおりです。

3. 政治家や官僚が、私たちと相容れないのは、大切にするものが違うから

個人主義の人たちが、

“一人ひとりの幸福の上に、日本という国の豊かさや発展がある”

と考える一方で、全体主義(あるいは集団主義)の人たちは、

“日本という国が豊かであればこそ、国民は幸福でいられる”

と考えます。

これは、似ているようで、まったく違った立場です。

なぜならば、ご存知のとおり、日本は、少子高齢化・人口減少の影響で、財源がどんどん目減りしていくことが、まず間違いありません。

私たち一人ひとりの希望をすべて叶えていては、破綻してしまいます。

そこで、

「より多くの人の希望を叶えるには、どうしたらいいか」

「集団全体として、少しでも豊かになるには、どうしたらいいか」

と考える結果になります。

たとえ、一部の人を見捨てる結果になったとしても

集団全体が破綻してしまうのは、何としても避けなければならないからです。

全体主義で考えざるを得ない、あるいは、もともと全体主義に基づいた使命感を持った人たちとは、言うまでもなく、政治家や官僚、行政の公務員たちです。

4. 国や行政は、絶対に私たちの思い通りになることは無い

安倍首相の人柄を嫌う人が多いようだ、という話があります。

「人柄が嫌で不支持」なのに「他の内閣より良さそうだから支持」されてしまう安倍政権(2ページ目)

けれども、たとえ印象の良い人が首相になったとしても、政治家の根本的な価値観が、全体主義である事実は、変わりません。

誰が首相になろうとも、私たちの希望どおりに振る舞ってくれることは、絶対にありません。

説明してきたとおり、物理的に不可能だからです。

限りあるリソースを、どのように分配するかーーそれこそが政治家や官僚、行政に携わる公務員の役割なのです。

もちろん、これは良い悪いではなく、立場の違い、役割の違いの話です。

そして個人主義である私たち一人ひとりは、千差万別で、年齢性別も、仕事も、社会的役割も、価値観も違います。

中には、自分の希望通りになったという人も出るでしょうが、それと同じだけ、いやそれ以上に、改善を要求する人が続出する結果になります。

これが、私たちが国政や政治や行政について語るとき、批判や文句ばかりが目立ってしまう、カラクリです。

5. “選挙がなによりも大切” という時代は終わっている

投票には行っていますか?

近年、選挙のたびに、投票率の低さが叫ばれ、選挙権の大切さが語られます。

けれども、私たちの多くは、投票をしても、その行為に重大な意味があるように実感できません。

これは、何万・何十万分の一票でしかない、影響力の小ささもあります。

が、根本的には、選挙で動かせるのは、(個人主義である私たちとは、根本的に相容れない)全体主義の領域 “だけ” でしかないからです。

膨大に膨らんでしまった国の借金の返済のために、消費税の税率を上げる。

私たちが真っ先に考えるのは、消費税の目的ではなく、自分たちの懐(ふところ)具合です。

しかしながら、私たちの懐具合は、選挙で目に見えて変わることはありません。

財源が限られ、先細りしていく以上、国や行政は、私たち一人ひとりの希望を叶えることができません。

私たち自身の、目の前の環境を劇的に変えるのは、自助努力であり、有志による相互扶助である、という事実から、目を背けてはいけないでしょう。

選挙は大切ですが、変えられることと、そうでないことがあるわけで、事実を見誤った過剰な礼賛は、失望へ直結します。

6. 誰にも正解はわからない

もちろん、国家や行政の視点も、大切です。

ここで私たちがとるべき態度は、大きく2つに分けられるでしょう。

1つは、自身の理想とする国家・行政の姿を思い浮かべ、積極的に推し進めようとする態度

もう1つは、国家や行政は、全体主義の価値観を持つ人たちに任せ、見守ろうという態度

一見すると、前者のほうが、勤勉な態度のようですが、必ずしも正解とは限りません。

なぜなら、何度も言及してきたとおり、私たちの大半は、まず自分自身や、自分の家族の幸せから考える、個人主義だからです。

自分自身や、自分の家族の幸せを犠牲にしてまで、日本という国全体の利益を考えようとは、しないはずです。

であれば、国家や行政は、常に集団全体の利益を考えている人たちに、任せて、見守ろうという選択は、むしろ賢明とも言えます。

国家を最優先に考えられなくても、国家の行く末に、積極的に口を出していくべきなのか。

国家のことは、国家を最優先に考えられる人たちに、任せて見守るべきなのか。

誰にも正解はわかりません。

どちらにしても、私たちには、「結果に責任を持つ」自覚しかできません。

7. 自分の希望を通すということは、誰かの希望が通らないということ

私たちが社会で生きる上で、最大の矛盾は、自分の希望を通せば、誰かの希望が通らなくなる、という厳然たる事実です。

例えば、“アベ政治を許さない” と現在の政権を否定する人が、たくさんいます。

が、それよりも多くの人が、政権を信任しています(だからこそ、選挙の結果、多数派を占めています)。

仮に、政権否定派の意見が通れば、それより多くの人々の意見が通らなくなります。

果たして、こうした状況における正当性を、どのように考えればいいのでしょうか。

画一的な価値観に支配される社会を望む人は、あまり深く考える必要はないかもしれません。

ただ自分の主張を押し通そうとすればよく、マジョリティ(多数派)なら安泰ですが、マイノリティ(少数派)なら、“アベ政治を許さない” と叫ぶ人たちのように、文句を言い続けることになるでしょう。

一方で、多様性を許容する社会を望む私たちにできることは、大きく2つあります。

①異なる意見の他人を尊重しつつ、声をあげる

なにもしなければ、多様性を排除しようとする社会に、引っ張られていくかもしれません。

多様な意見が存在すると、世の中に示すために、声をあげる必要があります。

ただし、この際に絶対にやってはいけないのは、異なる意見の他人を「間違っている」と断定し、否定することです。

他人を尊重しない人の意見に、耳を貸そうとする人は、いないでしょう。

②この手で少しずつでも、理想の環境を作り続ける

国や行政ができることは、印象ほど多くはありません。

財源が先細りしていく状況では、なおさらです。

国や行政の手が回らないところを、自分たち自身の手で、理想に近づけていく必要があります。

イメージとしては、全体主義で舵取りを行わざるをえない、国や行政という大きな枠組みの中、個人主義の小さな社会(あるいはコミュニティ)を、それぞれの理想に基づいて、それぞれが作っていく。

言うまでもなく、反社会的にならない義務と、考え方の違うコミュニティを否定しない寛容さは、大前提です。