だから私は、“義務教育だけが正解” だと過信・盲信できないのだと思いました。
責任を押し付け合って、こどものためにベストを尽くさないように見える教育現場で、自分のこどもに育ってほしいと思う親なんか、いるんでしょうか?
愛知県刈谷市の「こども21時でスマホ禁止」概要
愛知県刈谷市の全小中学校で、生徒・児童による夜21時以降のスマートフォン・携帯電話の利用が禁止されることになりました。
子ども21時でスマホ禁止、刈谷市が大胆な試み。LINE既読スルー問題、保護者責任を校長が明かす – Engadget Japanese
現在生徒らのコミュニケーションにおいて、LINEやメールのメッセージにすぐに返答をしなければ、翌日学校で「無視した」「スルーした」などと、攻められるそうです。大橋校長は「ごく普通の子どもの中には、無視やスルーが嫌で常にスマートフォンを身近なところに置いている子がいます。そこまでやりたくないのにって子どももいるんです。そうした子どもたちに、21時以降は親にスマホを取り上げられるから、と言い訳ができる状況を作りたいんです」と述べています。
スマートフォンやSNS特有の問題から生徒・児童を守るため、というのが建前のようです。
生徒や児童にとってベストだとは思わない
上記『Engadget Japanese』のライターHiromu Tsuda氏は、
もしかするとこの取り組み、生徒や児童にとって良い結果になるのかもしれません。
と書いています。
対処療法としては、ベターな結果になる可能性はあるかもしれません。私はまだ小学生のこどもがいる当事者ではないので(上の子が再来年に小学生になる)、想像力を上手く働かせられません。
が、ベストな結果には絶対にならない事実だけは、はっきりとわかります。なぜなら、問題の本質を見て見ないフリしているからです。
すなわち、「こども21時でスマホ禁止」は、花粉症による炎症を、強力な薬で押さえ込もうとしているだけでしかありません。
花粉症の人は、本当は、副作用で眠気が出たり、倦怠感が出たりするような薬を飲み続けたいのではなく、花粉症を根治したいんです。
花粉症で言えば、アレルギー体質そのものを解消できるかどうかが、問題の本質です。
これはスマホの問題でなく、家庭と教育現場のすれ違いの問題
「こども21時でスマホ禁止」の問題の本質は、校長の言葉に集約されています。
「保護者は自分で子どものために契約しておきながら、トラブルがあれば問題を学校に持ち込みます。子どもに持たせるために契約したのは保護者でありながら学校にです。これでは責任の所在が本末転倒です」
『Engadget Japanese』の記事が正確であると仮定すれば、「こども21時でスマホ禁止」は、家庭に責任を持たせる目的で生まれたことになります。
これを見て「もっともな言い分だ」という意見は、私にはよくわかりません。
親と教育現場が責任を擦り付け合っているだけでしかないからです。これはスマホの利用法の問題でなく、家庭と教育現場の関係性の問題です。本質は大人同士の責任の押し付け合いの問題でしかありません。
私は率直に「こどもを育てる責任はどこに存在しているんだろうか」と感じました。こんなふうに責任を擦り付け合うなかで、こどもを育てたいと思う親なんかいるんでしょうか。
スマホやLINEの問題は、家庭が悪いのでしょうか。それとも、教師や教育現場が悪いのでしょうか。
答は明確で、どちらも悪くないんです。
家庭は家庭で、教師は教師で、置かれた状況で精一杯に取り組んでいるはずです。
でも、それでもどうしてもうまくいかずに、「義務教育なんだから学校でやれ」「ここからこっちは家庭の責任だろ」と軋轢が生まれてしまっています。
問題が解決しないのは関係ができていないから
互いにうまくいっていないのであれば、助け合えばいいのに、罵り合ってしまうのはなぜか。
家庭と教育現場の間に壁があるからです。コミュニケーション不足と言い換えてもいい。
ダイアローグ、ワールドカフェ、あるいはフューチャーセッションといった方法論があります。
行政でも企業でもそうですが、なにか物事を前に進めようとするときに足かせになるのは、実は外的要因というよりも、利害関係者同士の冷えきった関係や無関心です。
Aさんの技術力と、Bさんの調整力があれば、物事は100倍早く前進するのに、別々に活動する。そして当然のごとく、Aさんは調整がうまくいかず、Bさんは技術不足で、遅々として進まない。
なぜ足りない要素を補おうとしないのか。しかも、同じ志を持っていて、同じ活動をしている他人が存在するとわかっているのに。
単に、人間関係がない、昔からそうしている、テリトリーが違う(縄張り意識が邪魔をする)。酷いときはプライドといった程度のバカげた理由なんです。
地域に開かれた学校を目指す、町田市の小学校の事例
ではどうすればいいか。同じ志を持った人を一か所に集めて、対話を重ねて、お互いの内に秘めた思いを知り合う。信頼関係を築く。
これだけで、嘘のようにすべてが好転します。
教育をより良くしよう、こどもたちを大切に育てよう、という思いでは、家庭も教育現場も実は同じ。コミュニケーションがとれれば、「なんだ、ぼくもそう思っていたんだよ。じゃあ一緒にやろうよ。こうしたらいいんじゃない?」という空気が生まれるからです。
実際に、そういう試みがなされている例があります。
「子ども× I’m OK!」in Child Future Session Week レポート | FutureCenterNEWS JAPAN
「子ども× I’m OK!」では、町田市の小学校の先生と、地域の人々が集まって、こどもが自己肯定感を持つためにはどうしたらいいのか?というテーマで対話がなされました。
家庭と教育現場が一丸となれば問題は解決したも同じ
主催の中村美央さん(小学校の先生)は近い将来、このような対話をクラスの保護者の方たちとしたい、と言っていました。
これは、同職業の方からも「勇気がある」と驚きの声が上がっていたほどで、対話によって育まれる空気、生まれる成果を知っていてこそです。
たとえば会社の同僚でも、一見近寄りがたい人だけど飲み会で同席したら印象が変わった、というケースは珍しくないはずです。互いに理解しあっていれば、モンスターペアレントだ、問題教師だ、と罵り合うケースは間違いなく激減します。
さらに、なにか問題や課題が発生したときには、家庭と教育現場が一丸となって、解決策を考えていく。
スマホの利用法で問題が発生したのなら、一方的に「こうしてください」と押し付けるのでなく、家庭と学校の事情や、お互いの考えを共有しつつ、一緒に対応方法を考えていく。
家庭も教育現場も、互いに責任を引き受け合う形で、学校をつくっていく。
理想が明確でなければ複雑な問題は解決できない
もちろんこれは理想です。
でも、理想を明確にしなければ、このように根が深い問題は、根本的な解決が不可能なのもまた事実。延々と不満を募らせながら、互いに責任を擦り付け合う道しか残されていません。
私が義務教育以外のオルタナティブ教育に魅力を感じるのは、単に画一的な教育ではないという魅力の他に、教育者も家庭も「こどもを育てる」に本気で取り組んでいる雰囲気を感じるからなのだと、ふと気づきました。
どうでもいいような理由で、こどもたちを二の次にしてしまう義務教育なら、こっちから願い下げです。