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先日の朝日新聞のミスリードを取り上げた記事。
「少子化対策は妊娠中絶問題から」はミスリード。野田聖子議員はいいことを言っている。
いただいた反応で、こんなものがありました。
「堕胎の禁止」を党内委員会に図る以上、既に「野田の主張する少子化政策の具体案の一つ」であり別問題にはできません。 RT @k_yorikane: 少子化対策のためになりふり構わずやるべき、という野田さんの意見に共感したからです。中絶禁止に賛成ではないですよ。それはまた別の問題
— 西大立目さん (@relark) 2013年2月25日
いいこと言ってません。「そのぐらいエグイ事」と例示する事は、現実に議論される内容として出すものです。「妊娠中絶禁止から」かどうかは問題じゃなく、ナンセンスです。>野田聖子議員はいいことを言っている。 yorikanekeiichi.com/gist-of-counte… @k_yorikaneさんから
— タクラミックスさん (@takuramix) 2013年2月25日
どうも「中絶禁止を議論すること自体が許されない」という立場のようです。その理由としては、
この類いの無茶を言う議員さんは、本当にやり始めるから怖いんですよ。生活保護、どうなりました?生活保護費引き下げに向けて、何が飛び出したか思い出して下さいね。>野田聖子議員はいいことを言っている。 yorikanekeiichi.com/gist-of-counte… @k_yorikaneさんから
— タクラミックスさん (@takuramix) 2013年2月25日
というものがありました。
議論そのものを否定すると自分の首を絞める結果に
現実問題として、国や政府の意向を覆すのにたいへんな労力が必要であるのはわかります。
しかしながら、それでも議論に入ること自体を否定するのには反対です。
なぜなら、明らかに自分で自分の首を絞める結果になるからです。
ある特定の層にとってデメリットでしかないから議論すらしない、というのでは、「投票者の平均年齢は57歳だから、若者に有利になる政策はデメリットでしかない。だから議論しない」と言われても反論できません。
「選挙で若者が大損する」—投票者の平均年齢は57歳(AERAより) (イケダハヤト) – BLOGOS(ブロゴス)
地方は投票率が高い高齢者が多い一方、都市部は投票率が低い若者が相対的に多い。その結果、実際の投票者の平均年齢が60歳近くにもなる。
中絶禁止も、ピルを使いやすくする改革とセットなら望まない妊娠を減らせるメリットがありますし、養子縁組の法整備とセットなら子供が欲しいけれど生めない人が子供と出会いやすくなるメリットがあります。もちろん、外的要因によって望まない妊娠をしてしまった方の救済措置は必要でしょう。
中絶禁止が本当に嫌なら、議論の中でより良い方向性へ持って行くか、止めさせればいいんです。地元の国会議員に陳情してください。全国722人の衆参議員の事務所に100人ずつ詰めかければいい。1億2800万人のうち、たった7万人が動けば止められます。それが日本の代議制であり、民主主義の仕組みなんですから。
自分で自分の首を絞める発言が目に付く
こういう自縄自縛というか、自分で自分の首を絞める発言はあちこちで見られます。先日、杉並区の待機児童問題を取り上げた際も、
希望者の2/3が認可保育園に入れない杉並区|自治体は保育需要をプラス要因と捉え、親たちは勇気を持って決断するべき
「子供のいない自分には関係ないから、子育て支援なんかに税金を使うな」という発言をしていた方を見かけました。
しかし、少子化の原因の一つは、核家族中心へシフトしたライフスタイルの変化に社会システムが追随できておらず、子育てがしにくい環境になってしまっている影響です。実際、育児をしていて痛感していますが、核家族での子育ての負担は、常軌を逸しています。
少子化を解決できなければ、「子育て支援なんかに税金を使うな」と仰った方は、20年後、30年後に年金や健康保険の恩恵にあずかれない(または削減される)事態になりかねないわけです。子育て支援は、子供がいようといまいと無関係に、社会全体として必要不可欠なものです。
生活保護への言説も同様ですよね。フリーだろうが正社員だろうが、いつ失職するかわからないし、いつ病気や怪我をして働けなくなってしまうかわかりません。それなのに生活保護を受給している人を貶したり、受給費を減らせと攻撃したりしています。不正受給を撲滅するのは当然ですが、生活保護自体を敵視するべきではありません。
個人主義をコントロールしよう
なぜこのような、敵だと思って殴りかかったら鏡に映った自分だった、みたいなそそっかしい事態に陥るのでしょうか。しかも殴りかかった後でなお、それが自分自身だったとは気がついていない。「やっつけてやったぜ」と意気揚々としているわけです。
一昔前は、社会を構成する最小単位が「大家族」や「ムラ」だったはずです。それがいまは「個人」へシフトしています。おそらくここに原因があるんでしょう。個人が悪いというわけではなく、スタイルの問題です。
大家族やムラが中心だった時代は、コミュニティを脅かす可能性のある要素に対して、過剰反応していました。それは「外から来た人間を警戒する」というふうに外部に向けられることもあれば、村八分のように内部に向けられることもありました。
一方で、個人が中心の現在はシンプルです。自分のメリットにならない要素だけを徹底排除すればいい。
ただ、シンプルな一方、脆くもあります。メリットもデメリットもすぐさま自分に跳ね返ってくるからです。過剰防衛をしてしまったり、即物的になってしまったりしやすいんでしょう。
「昔のほうが良かった」的な言説は大嫌いで、まったくそんなことは思いませんが、一方で個人主義をうまくコントロールできないんじゃあ残念過ぎます。
自分自身や妻や子供の利益が最優先。それでいいと思います。僕自身も完全に個人主義です。
ただし、私たちは社会の中にいるんですから、社会全体の利益を考えてこそ、個人のメリットが最大化できる事実は忘れたくありません。
個人主義に振り回されるんじゃなく、見事にコントロールしてやろうじゃありませんか!