ソーシャルイノベーション

289月

保育士は保育園を変えようとするんじゃなく、保育園から飛び出しちゃおう。

「子ども一人ひとりの個性や、発達の度合いに関係なく、全員に同じ水準を求める」「みんなと一緒でなければならない」「ときには怒鳴ってでもやらせようとする」などなど。

働いていて、幼稚園や保育園の方針に違和感を抱いている幼稚園教諭・保育士さんたちへ。

同僚や、園の経営者・園長らを変えなくちゃ、と使命感に駆られている人もいるかもしれません。

が、そういう方は、幼稚園・保育園から飛び出すべきです。

 

保育園から飛び出すべき2つの理由

私は保育・教育業界の人間ではなく、単なる2人の子どもの親で、単なるブロガーで、Webメディアのディレクターです。

でもだからこそ、マーケティングや、社会構造の観点から、「保育園から飛び出すべき」と断言できる理由が、明確に2つ見えます。

1つは、保育園は、変えようとしても、変わらない。問題の根本は、幼稚園や保育園にあるのではありません。

2つ目は、保育園を変えるのが正義とは限らない。絶対的な価値観など、存在しません。

 

そもそも教育とは、国の価値観によって作り上げられる

小学校から始まる義務教育、そして高校・大学と続く教育システムは、国が作り上げるものです。

国は、何の目的もなく、国民に教育機会を提供しているわけではありません。

国民の「学ぶ権利」ももちろんありますが、同時に、国が発展し、国民一人ひとりが豊かになるために、労働者や生産者の教育水準を引き上げる目的があるわけです。

国は、ある価値観に基づき、ある方法論を選択し、結果として現在の教育システムができあがっています。

もちろん、どういう教育が効率的なのかについては、様々に意見があるわけですが、ここではひとまず置いておきます。

 

幼稚園・保育園がおかしいとしたら、教育システム全体に問題がある

幼稚園は、一言で言えば、小学校入学の準備をするための機関です。

保育園は、そもそもは、事情があって育児に専念できない市民のための社会福祉ですが、どうせなら、親としては、小学校入学の準備をしてくれたほうが良いに決まっています。

小中高と続く、一般的な教育システムに乗っかる以外に、選択肢は事実上、存在していないからです。

幼稚園・保育園での教育方針が変だとすれば、原因は、小学校・中学校と続く教育システムにあります。

突き詰めていけば、国の価値観や方針に問題がある、という結論になります。

 

経営の観点からは間違っているとは言えない

幼稚園、保育園の経営者は、「小学校に入学して困らないように」とのニーズに応えているだけです。

「子ども一人ひとりの個性や、発達の度合いに関係なく、全員に同じ水準を求める」「みんなと一緒でなければならない」「ときには怒鳴ってでもやらせようとする」

これらが徹底されていればいるほど、経営や、マーケティング的には「正しい」のです。

我が子が、小学校・中学校でうまくやっていけなかったらどうしよう、と恐怖を抱く親は、少なくありません。

先ほど書いたとおり、ドロップアウトしてしまったら、落ちこぼれになってしまうと思い込んでいるからです。

(実際には、別の選択肢を選べばいいだけなんですが、現実問題としては、ごく一部の例外でしかない)

「小学校の入学準備をしますよ」とわかりやすく掲げ、実行している園と、そうでない園があったら、当然、前者のほうが、選ばれる率が高くなります。

 

末端で行動しても、効率が悪く、効果は限られる

そんなやり方は古い。時代にあっていない。子どもたちの自尊心が育たない。子どもたちを潰してしまう。

個人的には賛成です。

でも、国が起点となる教育システムの末端で、古きものを変革しようとしたところで、いったい何ができるでしょうか。

小学校以上の教育システム全体、つまり国の教育に対する価値観を変えない限り、問題の根本的な解決にはなりません。

いま目の前にいる子どもたちのケアも大切です。それはわかります。

が、あなたがそこからいなくなれば、同じ惨状が繰り返されるだけ。

だからこそ、おかしいと感じたら、さっさと飛び出してしまうべきなんです。

 

「おかしい」と直感する親子に、新しい選択肢を提供する

あなたが理想だと思う、新しい場を作りましょう。共感する人の手伝いでもいいでしょう。

「今の状況はおかしい」と直感している親や子どもに、新しい選択肢を提供するんです。

そうして育った子どもたちが、社会に出て生き生きとしていれば、世の中の人々は「あれ、なんかうらやましい」と思うようになります。

“例外” でしかなかった道が、単なる “選択肢の一つ” になっていきます。

 

「自分だけが正しい」と盲目になってはいけない

もう1つ、旧来的な価値観の幼稚園・保育園を変革しようとするのをおすすめしない理由は、それが絶対的に良いことだとは言えないからです。

何事もそうですが、絶対的な価値観など存在しません。

“殺人” も、時と場合によっては正当化されるし、支持する人がいます。たとえば、安楽死であり、死刑です。

旧来的な幼稚園・保育園にだって、「小学校に備える」という正当性があります。それを求める親も、少なくありません。

むしろあなたが別の価値観を持ち込むことで、混乱させてしまうかもしれない。

自分だけが正しいわけではありません。

だったら、自分の思うとおりに活動できる場所で、活動したほうがいい。

逃げるように思われるのが悔しいという人や、目の前の子どもを見捨てるようで踏み切れない、という方もいるかもしれません。

でも、あなたのその問題意識は、幼稚園・保育園の外に出てこそ、正当性が生まれ、本当の意味で価値のあるものになります。

 

「相手が間違っている」という姿勢でいる限り、相手を変えるのは不可能

最後に、今いる園こそが私の戦う場所だ、という保育士さんへ。

それも一つの選択です。でも、「相手が間違っている」という姿勢でいる限り、相手を変えるのは不可能、とだけは、理解してください。

まったく別の話題ですが、紛糾した安全保障法案に対し、デモが活発に活動していました。

法案にどのような意見を持ってもいいのだけれど、「絶対に止める」というスローガンには、私は眉をひそめました。

「絶対に止める」というスローガンからは、自分と違う価値観を持った、けっして少なくない人々への “敬意” が欠けているように思えてならなかったからです。

「私たちはこう思う」という意思表示はいい。どんどんやるべきです。

でも、正しいのは自分たちで、それ以外は間違っているから、自分たちの言うとおりにしろ、というのは、筋が通らない。

 

相手を理解し、尊重できてこそ、変革していける

彼らがやるべきは、戦争に行きたくないと叫ぶことではなく、不安があるのなら、(ルールに則って選ばれた)現政権が選択した安全保障の中身について、具体的な折衝をすることです。

まるで違った価値観の人間が存在すると認めたうえで、敬意を払い、妥協点を探ろうとするのでなければ、誰が聞く耳を持ってくれるでしょうか。

保育・教育についても同じです。

国のやり方は間違っている、園長のやり方は間違っている、と思い込んでいないでしょうか。

なぜ現在のやり方を選択しているのか、構造を学び、相手を理解し、尊重できてこそ、変革の手がかりを見つけられます。

95月

我が子が、商店街の本物のお店で職業体験ができたら、いい経験になると思いませんか?

幼児〜小学生くらいのこどもがいる、お父さん、お母さんへ。

我が子が、商店街の本物のお店で、お手伝いをさせてもらえる機会があったら、おもしろそうだし、いい経験になると思いませんか?

実は、東京都大田区の大森ウィロード山王商店街で、実際に行われました。

こどもたちが商店街で売り子に!『asobi基地 x 商店街 お店屋さんに変身!』レポート

4歳の娘と参加してきたんですけど、見てのとおりの充実した表情を見せていたんですよ。

我が家は次回、5/24の開催も参加するんですが、「次は何のお店屋さんやろうかな〜?」と目を輝かせています(担当のお店は、くじびきで決めるんですけどねw)。

その『リトルアキナイ』ですが、継続開催のために活動資金をクラウドファンディングで募っています。

リアルな「アキナイ」で子どもの笑顔が広がる地域に!(町田 佳路) – READYFOR?

 

こどもが将来、自分らしく生きられるようにするには「社会を見せる」以外に方法がない

こども職業体験というと、有名なのはキッザニアですよね。

完成度の高さで評判ですし、別にキッザニアを否定しようというんじゃないんですけど、私はキッザニアには足が向かないんです。

ま、エンターテイメントとしてはアリかな、という程度で。

なぜなら、こどもに必要なのは、「仕事を体験させること」ではなく、「社会(世の中)の多様性を見せること、実感させること」だと考えているからです。こちらの記事に詳しく書いているんですけど、

僕が子供を仕事に連れて行きたい5つの理由

要約すれば、

・教育現場では社会との接点がほぼない。大学を出てから社会を学ぶのでは20代を無駄にしてしまう
・「いろいろなことを仕事にして生きている人がいる」と世の中の多様性を知らなければ、自分らしく生きる方法を極めて見つけにくい

つまり、社会の仕組みを実感を持って理解するために、職業体験は良い手段である、というだけで、職業体験そのものが目的じゃないんですよ。

こどもが将来、自分らしく生きられるようにするには、「社会を見せる」以外に方法がないと私は考えています。

 

世の中の人々もけっして疑似体験で満足しているわけではない

疑似体験でしかないキッザニアは、私にとっては、とてもとても物足りないんです。

それに、世の中のお父さんお母さんも、けっしてキッザニアに100%満足しているわけじゃないと思うんです。

社会に触れさせる必要性は感覚的に理解しているけれども、他に選択肢がないから、疑似体験といえどキッザニアに殺到せざるを得ない。

本来であれば、本物のお店で働けるほうがクリティカルな体験になるし、こどもにとってもおもしろいですよね。

『リトルアキナイ』なら、そのクリティカルな体験が、気軽にできてしまいます。

実際に私は、『リトルアキナイ』初開催のとき、告知を見た瞬間に「これだ!」と直感して参加ボタンを押していましたからね。

 

継続的な活動になれば、あなたの街でも『リトルアキナイ』が開催されるかも

クラウドファンディングで『リトルアキナイ』の活動資金を募っている町田さんは、こう書いています。

もう一度言います。

僕はこの活動を一度限りのものにしたくない。まずは大森という土地で何度も繰り返すことで、他の地域にも広げていきたい。もしその地域が広がったら・・・子どもたちはその地域を知り、興味を持ち、アクションを起こすキッカケとなるでしょう。何度も何度も声を出すことで、人を動かす。そんなことを子どもたちと商店街という場所で、一緒にやっていきたいと考えています。

ノウハウと実績を積み重ねて、他地域にも広げていきたい。

そう言っているんです。

みなさんの地元でリトルアキナイが開催されたら、参加してみたいですよね。

 

共感する方はぜひ支援を!

活動に共感する方、リトルアキナイにこどもを参加させてみたい方、自分の街でリトルアキナイが開催されてほしいと思う方は、一口3,000円からの支援をしてはいかがでしょうか。

いい取り組みは、自分の手で応援しなきゃ。

もしかしたら、あなたの支援がなければ、『リトルアキナイ』は広がっていかないかもしれないんですから。

私はもちろん、応援します。なにしろ、我が子が目を輝かせている様子を、目の当たりにしているんですから。

リアルな「アキナイ」で子どもの笑顔が広がる地域に!(町田 佳路) – READYFOR?

15月

保育士にしかできないやり方で子育て環境をより良くする!|asobi基地「保育士マーク」プロジェクトを応援

保育士が持つ “専門性” を意識した経験がありますか?

待機児童解消とセットで、日本社会の大きな課題となっているのが、保育の質の確保です。

保育士の人材不足は、表面上は、仕事内容の過酷さや、責任の重さ、賃金の低さと言った諸条件の問題として語られるんですが、根本にあるのは社会的な地位の低さだろうと私は直感しています。

子育てに関わらずに生きてきた人の中には、「誰にでもできるような仕事」だと信じている人が、少なからずいます。

専門的かつ重要な仕事であると認識されていないから、必要性が叫ばれても、結局は待遇の改善に繋がっていかないわけです。

 

保育士にしかできないやり方で子育て環境をより良くする

保育士の専門性に気づき、保育士にしかできないやり方で、社会をより良くしようといち早く行動してきたのが、『asobi基地』代表の小笠原舞さんです。

今回、東京支部代表の相原里紗さんをはじめ、asobi基地に関わる保育士たちがやろうとしているのは、こちらです。

子育て中のママ・パパと保育士をつなぐ「保育士マーク」を作りたい!(相原 里紗) – READYFOR?

タイトルと見出しを見ると、「子育て中のママ・パパを助ける」ということが主旨・目的のように見えるかもしれません。

しかし実際には、本文を読めばわかるとおり、これは全国の保育士へ向けたメッセージです。

私に言わせれば、“保育士が専門性を発揮しやすい環境を作り、自信を持って行動できる保育士を増やし、社会をより良く変えていこう” というのが取り組みの本質なんです。

もちろん、結果としては、「子育て中のママ・パパを助ける」ということに繋がります。

 

どれだけ多くの賛同を集められるか?

多くの人に支えられて大きくなってきたasobi基地なので、資金調達そのものは簡単に成功するはずです(と、書いているうちに達成したようです)。

重要なのは、どれくらい多くの賛同を集められるか、ということ。

たくさんの支援が集まれば集まるほど、保育士マークをたくさん作成でき、多くの保育士に配布できます。

そして一般に浸透させていく後押しができます。

 

保育士の社会的地位向上のきかっけに

私が応援する理由は、この取り組みによって、自信を持って行動する保育士が増え、保育士の社会的地位が向上するきっかけになるような気がするからです。

主旨に賛同する方は、ぜひ支援をお願いします。

また、「なにか行動しなければいけない」と感じていた全国の保育士のみなさん、ぜひプロジェクトに参加してください。

子育て中のママ・パパと保育士をつなぐ「保育士マーク」を作りたい!(相原 里紗) – READYFOR?

174月

担任の入学式欠席問題|公務員は元々ブラックな職種である、という前提から根本的に考え直さなくてはいけない

公務員はどうあるべきなのか? という本質的な問題提起に直面しているように感じます。

【主張】担任の入学式欠席 教師が優先すべきは何か+(1/2ページ) – MSN産経ニュース

埼玉県の県立高校で、新入生のクラスを受け持つ担任教諭が入学式を欠席し、息子の入学式に出ていた。同様の理由で担任不在だった入学式がほかの県立高校でもあり、県教育長は校長会で新入生や保護者に不安を与えないよう指示した。

 

個人的にはアリ。だが「本来どうあるべきなのか?」は別問題

「現実に目の前の問題にどう対処すべきか」と「本来どうあるのが理想なのか」は、分けて考える必要があります。

前者の観点から言えば、私は “我が子の入学式に出席する” という担任の選択はアリだと思います。ただ、幼稚園や小学校ならともかく、高校の入学式なので、私なら出席するかどうかは、こどもの判断に委ねます。

担当クラスの入学式に出席できないことが問題なのであれば、入学式など行事が重なる可能性が高いのは事前にわかっているので、こどもがいる教師から申告があった場合に、新入学クラスを担当させない配慮をするなどの手段が考えられます。いくらでもやりようはあるでしょう。

ただ、本来どうあるのが理想なのか?という話になると、これは一筋縄ではいきません。

 

公務員はもともとブラックな職種

私は、公務員というのは、最も労働条件の劣悪な職種の一つだと思っています。

なぜなら、“私” よりも “公” を優先する役割だからです。

ブラック企業と比較すれば、労働時間が短く、給料も多くもらっている、というケースもあるかもしれません。

が、ブラック企業では、究極の選択を迫られることはありません。嫌なら嫌と言って逃げ出してしまえばいいからです(逃げ出せない人もいるかもしれませんが、それはまた別の問題)。

でも、おそらく公務員という立場では、逃げ出そうとはなかなか思えないはずです。

たとえば、大地震が起きた。誰かが、津波から避難するように呼び掛けなければいけない。

こうした非常事態に「自分がやらなければ、大勢の住民が危険にさらされてしまう」と責任を背負わざるをえないのが、公務員という立場です。

 

誰かがやらなければならない

「入学式の出席と、災害対応では、深刻さの程度がまったく違う」という意見もあるでしょう。

入学式は生命にかかわる問題ではないのだから、“私” を取ったっていいじゃないか、と。私も個人的にはそう思います。

しかしながら、「違うのは程度だけ」というのもまた事実です。構造的には同じ問題なのです。

社会を維持し、よりよくするために、ときには “私” よりも “公” を優先し、誰かが犠牲心を持って取り組まなければいけない。

そう、誰かがやらなければいけないんです。

もし、誰もやる人がいなければ、私たちは暮らしにくくなるし、教育の水準が落ちるかもしれないし、いざというときに危険にさらされるかもしれません。

 

私たちは公務員に敬意を払うべき

いわゆるバブル崩壊後からでしょうか?

公務員は安定した職業で、定時に帰宅でき、楽な仕事にもかかわらず高給取りである、というような認識が広がってきたのは。

公務員は批判の矢面に立たされやすい現実があります。

が、実際には、普段は定時に帰宅できたとしても、緊急事態には家族よりも “公” を優先しなければいけません。

誰もが “私” を優先したいと感じる状況で、“公” を選択せざるをえない役割なんです。

私は、“公” のために働いてくれる公務員は、高給でまったく問題ないと考えています。それだけの役割を担っていると思うからです。

そして我々は、“公” のために働いてくれる公務員に、敬意を払うべきではないのでしょうか。

消防士なら、わかりやすいかもしれませんね。

真夏の炎天下だろうが、深夜だろうが、火事が起きれば何をも差し置いて駆けつけてくれる人たち。

消防士を見下したり、高給取りだとバッシングする人は少ないはずです。

実は、役所の職員だって、教師だって、消防士ほどのわかりやすさはありませんが、“公” のために同じ役割を担っています。

 

教師の役割を整理すべき時期にきている

私たちが考えるべきは、「担当クラスの入学式を欠席して我が子の入学式に出席するのを許すべきかどうか」などという表面的な問題ではないでしょう。

そもそも、現代社会において、教師はどんな役割を担うべきなのか?

私たちは教師に何を求めるのか?

知人や親戚縁者を見ている限り、現場ではまだ「“私” を犠牲にしても、こどもたちのために」という教師は少なくないように見えます。

しかし実は、国民の多くは、教師にそこまでの奉仕を求めていないのかもしれません。

だとしたら、教師の(文字通り)奉仕が担っていた部分を、誰がどのように代替するのか。代替はそもそも必要なのかどうか。

教師の役割、教育のあり方、あるいはもっと根本的に公務員のあり方そのものを、真剣に考え直す時期にきているように感じます。

183月

「こども21時でスマホ禁止」では絶対に問題は解決しない

だから私は、“義務教育だけが正解” だと過信・盲信できないのだと思いました。

責任を押し付け合って、こどものためにベストを尽くさないように見える教育現場で、自分のこどもに育ってほしいと思う親なんか、いるんでしょうか?

 

愛知県刈谷市の「こども21時でスマホ禁止」概要

愛知県刈谷市の全小中学校で、生徒・児童による夜21時以降のスマートフォン・携帯電話の利用が禁止されることになりました。

子ども21時でスマホ禁止、刈谷市が大胆な試み。LINE既読スルー問題、保護者責任を校長が明かす – Engadget Japanese

現在生徒らのコミュニケーションにおいて、LINEやメールのメッセージにすぐに返答をしなければ、翌日学校で「無視した」「スルーした」などと、攻められるそうです。大橋校長は「ごく普通の子どもの中には、無視やスルーが嫌で常にスマートフォンを身近なところに置いている子がいます。そこまでやりたくないのにって子どももいるんです。そうした子どもたちに、21時以降は親にスマホを取り上げられるから、と言い訳ができる状況を作りたいんです」と述べています。

スマートフォンやSNS特有の問題から生徒・児童を守るため、というのが建前のようです。

 

生徒や児童にとってベストだとは思わない

上記『Engadget Japanese』のライターHiromu Tsuda氏は、

もしかするとこの取り組み、生徒や児童にとって良い結果になるのかもしれません。

と書いています。

対処療法としては、ベターな結果になる可能性はあるかもしれません。私はまだ小学生のこどもがいる当事者ではないので(上の子が再来年に小学生になる)、想像力を上手く働かせられません。

が、ベストな結果には絶対にならない事実だけは、はっきりとわかります。なぜなら、問題の本質を見て見ないフリしているからです。

すなわち、「こども21時でスマホ禁止」は、花粉症による炎症を、強力な薬で押さえ込もうとしているだけでしかありません。

花粉症の人は、本当は、副作用で眠気が出たり、倦怠感が出たりするような薬を飲み続けたいのではなく、花粉症を根治したいんです。

花粉症で言えば、アレルギー体質そのものを解消できるかどうかが、問題の本質です。

 

これはスマホの問題でなく、家庭と教育現場のすれ違いの問題

「こども21時でスマホ禁止」の問題の本質は、校長の言葉に集約されています。

「保護者は自分で子どものために契約しておきながら、トラブルがあれば問題を学校に持ち込みます。子どもに持たせるために契約したのは保護者でありながら学校にです。これでは責任の所在が本末転倒です」

『Engadget Japanese』の記事が正確であると仮定すれば、「こども21時でスマホ禁止」は、家庭に責任を持たせる目的で生まれたことになります。

これを見て「もっともな言い分だ」という意見は、私にはよくわかりません。

親と教育現場が責任を擦り付け合っているだけでしかないからです。これはスマホの利用法の問題でなく、家庭と教育現場の関係性の問題です。本質は大人同士の責任の押し付け合いの問題でしかありません。

私は率直に「こどもを育てる責任はどこに存在しているんだろうか」と感じました。こんなふうに責任を擦り付け合うなかで、こどもを育てたいと思う親なんかいるんでしょうか。

スマホやLINEの問題は、家庭が悪いのでしょうか。それとも、教師や教育現場が悪いのでしょうか。

答は明確で、どちらも悪くないんです。

家庭は家庭で、教師は教師で、置かれた状況で精一杯に取り組んでいるはずです。

でも、それでもどうしてもうまくいかずに、「義務教育なんだから学校でやれ」「ここからこっちは家庭の責任だろ」と軋轢が生まれてしまっています。

 

問題が解決しないのは関係ができていないから

互いにうまくいっていないのであれば、助け合えばいいのに、罵り合ってしまうのはなぜか。

家庭と教育現場の間に壁があるからです。コミュニケーション不足と言い換えてもいい。

ダイアローグ、ワールドカフェ、あるいはフューチャーセッションといった方法論があります。

行政でも企業でもそうですが、なにか物事を前に進めようとするときに足かせになるのは、実は外的要因というよりも、利害関係者同士の冷えきった関係や無関心です。

Aさんの技術力と、Bさんの調整力があれば、物事は100倍早く前進するのに、別々に活動する。そして当然のごとく、Aさんは調整がうまくいかず、Bさんは技術不足で、遅々として進まない。

なぜ足りない要素を補おうとしないのか。しかも、同じ志を持っていて、同じ活動をしている他人が存在するとわかっているのに。

単に、人間関係がない、昔からそうしている、テリトリーが違う(縄張り意識が邪魔をする)。酷いときはプライドといった程度のバカげた理由なんです。

 

地域に開かれた学校を目指す、町田市の小学校の事例

ではどうすればいいか。同じ志を持った人を一か所に集めて、対話を重ねて、お互いの内に秘めた思いを知り合う。信頼関係を築く。

これだけで、嘘のようにすべてが好転します。

教育をより良くしよう、こどもたちを大切に育てよう、という思いでは、家庭も教育現場も実は同じ。コミュニケーションがとれれば、「なんだ、ぼくもそう思っていたんだよ。じゃあ一緒にやろうよ。こうしたらいいんじゃない?」という空気が生まれるからです。

実際に、そういう試みがなされている例があります。

「子ども× I’m OK!」in Child Future Session Week レポート | FutureCenterNEWS JAPAN

「子ども× I’m OK!」では、町田市の小学校の先生と、地域の人々が集まって、こどもが自己肯定感を持つためにはどうしたらいいのか?というテーマで対話がなされました。

 

家庭と教育現場が一丸となれば問題は解決したも同じ

主催の中村美央さん(小学校の先生)は近い将来、このような対話をクラスの保護者の方たちとしたい、と言っていました。

これは、同職業の方からも「勇気がある」と驚きの声が上がっていたほどで、対話によって育まれる空気、生まれる成果を知っていてこそです。

たとえば会社の同僚でも、一見近寄りがたい人だけど飲み会で同席したら印象が変わった、というケースは珍しくないはずです。互いに理解しあっていれば、モンスターペアレントだ、問題教師だ、と罵り合うケースは間違いなく激減します。

さらに、なにか問題や課題が発生したときには、家庭と教育現場が一丸となって、解決策を考えていく。

スマホの利用法で問題が発生したのなら、一方的に「こうしてください」と押し付けるのでなく、家庭と学校の事情や、お互いの考えを共有しつつ、一緒に対応方法を考えていく。

家庭も教育現場も、互いに責任を引き受け合う形で、学校をつくっていく。

 

理想が明確でなければ複雑な問題は解決できない

もちろんこれは理想です。

でも、理想を明確にしなければ、このように根が深い問題は、根本的な解決が不可能なのもまた事実。延々と不満を募らせながら、互いに責任を擦り付け合う道しか残されていません。

私が義務教育以外のオルタナティブ教育に魅力を感じるのは、単に画一的な教育ではないという魅力の他に、教育者も家庭も「こどもを育てる」に本気で取り組んでいる雰囲気を感じるからなのだと、ふと気づきました。

どうでもいいような理由で、こどもたちを二の次にしてしまう義務教育なら、こっちから願い下げです。

TOPページ サイトマップ 更新履歴