記念すべき第50回の文藝賞を受賞した作家、桜井晴也さんにインタビューしました。
桜井さんとは、数年前に、私が主催していた小説の勉強会で知り合いました。敬意を込めて言いますが、すごーく変なヤツで、当時から、紡ぎだす小説やブログの文章に共感しつつ、様々に言葉を交わしていました。
私にとってはこの上なく魅力的な人物です。
お祝いにワインを楽しみながら、たくさん話を聞いてきたので、いくつの記事に分けて紹介します。今回のテーマは、「新人賞を受賞するためにどうすべきか」についてです。
昔からの知り合いならではの、ざっくばらんな雰囲気でお届けします。
8年9年かけて20回近く応募して受賞
——いやー良かったね。安心した。昔、小説の勉強会をやっていたときも、参加者の半分くらいが桜井晴也ファンで、これはこどもの頃から小説をよく読んでいて、小説という体験が好きな人が多かった。
「意味が分からない」と言っていたもう半分は、エンタメ小説を書きたい人たちで、これは方法論が180度違うから当然。
だから個人的には、読む人が読めば評価されると思っていたし、あとはいかに下読みを突破できるか、みたいな。
桜井:(受賞したときは)意外に、あるんですね、と思って。「あ、きた」って。
——小説新人賞の仕組みを知らない方のために捕捉しておくと、まず応募が1,000本とかある。それを “下読み” と呼ばれる人たちがふるい落としていく。
第50回文藝賞の場合は、1,819本の応募があって、一次通過が76本。わずか4%。
以降、おそらく編集部のチェックが入って、二次通過が46本、三次通過が21本、四次通過が11本、最終候補作はたった3本。
最終選考に残って始めて、選考委員に読んでもらえる。結局、最終選考に残るかどうかだよね。
桜井:そうですね。
——やっぱりコツは、「数打ちゃ当たる」ですかね?
桜井:コツは「数打ちゃ当たる」……ですね。(と、応じつつ、ちょっと言い淀む)
——今まで、どれくらい応募したんですか?
桜井:文藝賞は6回くらいです。他の新人賞を入れると、19歳から応募し始めて、8年9年で、20回いかないくらいです。
——20回近く落選して、それでもまだ応募する気になれるのはなぜ? ふつう、それだけ落選したら「駄目だ」とならない?
桜井:なります? 二次選考を通過したりすると、けっこうテンションはあがりますね。
そもそも、ヘコまないですね。だって、そんなに期待していないし、応募して半年後とかに結果が発表されても、そんなに興味ないじゃないですか。ふーん、みたいな。
——そうか、どちらかっていうと、自分が絶対に受賞すると思い込んでいるほうがおかしいか。僕も含め。
桜井:そうですね。(笑)
『世界泥棒』は会話と描写を変えた
——話を戻すけれど、20回近く応募して、『世界泥棒』は文藝賞を受賞できた。それ以外は落選した。
なにか自身の中で、「『世界泥棒』はここが違った」というのはあるの?
桜井:コツは「数打ちゃ当たる」と言いましたけど、今までの作品じゃダメだろうな、という感覚はあったんです。
『世界泥棒』は、会話の書き方を思い切り変えた、というのが違うところで、僕の中では大満足していたんです。
——それは受賞とは関係あるの?
桜井:今までは、会話文が少なかったんです。描写がダーっとあって、重要なところだけ会話文にして、というふうに。
『世界泥棒』では変えて、重要なところだけではなくて、全部会話でやろうと。
あとは時間の流れです。
——時間の流れというと?
桜井:小説では、ある場面で1分間の時間が流れていたとしても、描写的には1分間もないんですよ。
『世界泥棒』では、1分間の場面があったら、1分間分の描写なり会話なりが必ず入ってくるようにしているんです。
選考委員は “強度” を評価している
——あ、なるほど。じゃあ、関係あるかもしれないね。というのは、基本的に選考委員が絶賛しているんだけれど、どんな評価をしているかというと、
『世界泥棒』は、作品世界の創造においては文句のない強度を備えている。現実に拮抗するまでに作品は自立しており、細部にいたるまでしつこいほどにこの異様な世界の粘着質な空気が充満している。(星野智幸)
多くの新人賞の候補作によくある「小説とはこういうもの」を、軽々と超えている。(角田光代)
『文藝』2013年冬号より
というわけですよ。
エイミー(山田詠美さん)だけ、「〈柊くんが夕暮れを食べて嘔吐していた〉なんてフレーズにすっかりやられて」なんて言っているけど。(笑)
桜井:あの方は謎ですから。どこに引っかかるのか僕にはわかりません。(笑)
描写をしていても、状況を正確に伝えようとはしていない
——いやでも、描写や比喩の使い方で一つ思ったのは、たとえば「撃たれた男の子はまえにうしろにくらげのように揺れて」というフレーズがあるけれど、くらげって「まえにうしろに」なんて揺れないよね。
水族館に行けばわかるけど、漂う感じじゃないですか。
桜井:あ、そうなんですか?
(二人で爆笑)
——だから、描写をしていても、状況を正確に伝えようとはしていない。
読んでいると、「くらげ」という言葉から受ける “質感” みたいなものにガイドされながら、作品の世界の中を進んでいく感じがする。
桜井:いいこと言いますね。
——たぶん、エイミーはそのあたりに共感する部分があったんじゃないかな。「なんかこの感覚好き」みたいな。
桜井:そうですかね。(笑)
「何を書くか」ではなく「どう書くか」
——で、状況を正確に伝えようとしない描写、ということもそうなんだけれど、『世界泥棒』は、いわゆる「新人賞を受賞したいならこうしろ」みたいなセオリーからは、かけ離れているよね。
読みにくい、一文が長い、意味がわからない、と三拍子揃っている(注:冗談だと思う方は原著をお読みください)。
桜井晴也が思うに、新人賞を受賞したいならどうすればいいですか?
桜井:うーん……僕が言えるのは「本を読んで、小説を書け」としか……。
よく、才能が無きゃ書けないとか、感性が無きゃ書けないとか言いますけど。
——読むのが重要だ、というのはわかる。凡人が、書き方を自分で発見できるわけがないんだから、どれだけ「こういう書き方をされている小説がある」と知っているかにかかってくる。
桜井:基本的に純文学は技術力勝負なんです。
小説を書くということは、取捨選択です。この文章を書くのか書かないのかという選択を常にする。
ある状況を描写する必要があるときに、どういうふうに描写するのか。あるいは一ページ丸々書くのか、二行で済ませてしまうのか。
一ページ丸々書くのなら、相応の文章が必要ですよね。二行でさらっと書くのなら、そんなの誰でも書けるわけだから、どういうスタイルを取っていくのか。
——なるほど。
桜井:純文学の場合、考えるのはそこからなんです。
物語がどうとか、テーマがどうとかは、後なんです。そこを考えてもどうしようもない。
——たとえば、新人賞を狙うなら、一次選考の下読みを突破するためにわかりやすく書け、目新しいテーマを選べ、とか言うわけじゃないですか。
桜井:それがダメなんですよ。「下読みを突破するため」とか、「目新しいテーマ」だとか、スタート地点が違うんですよ。
そこを考えるのは、もっとあとの話なんですよ。
——あとって、いつ?
桜井:デビューしたあとに考えればいい話です。
いや、そもそも、そんなの考えなくていいんですよ。
「わかりやすく書け」だとか「目新しいものを書け」というのは、受賞作に結果的にそういう作品もあったというだけで。
純文学では、「何を書くか」じゃなくて、「どう書くか」についての話が90%以上を占めているんです。「どう書くか」が先にあって、「何を書くか」なんです。
——やっぱり結論は、「読んで、書け」になる。
桜井:「読んで、書け」ですね。
桜井晴也は読書家だ。最も読んでいた学生時代には、月に20冊から30冊は小説を読んでいたそうだ。
読書だけでなく、名画座にも通うし、舞台も観にいく。趣味の範囲はけっして広くない。だが、深い。
こうして、膨大な文学の歴史を踏まえているからこそ、現代の純文学において、次の一歩を、「朧げながら」かもしれないが、見つけることができた。
今までに何が書かれてきているのかがわからなければ、次に何を書いたらいいのかがわかるはずがない。
小説家を目指す人にとって、何ら参考にならないと思うが、「新人賞を受賞するためにどうすべきか」への桜井晴也の回答は、「読んで、書け」となる。
日本一役に立たない方法論になってしまったが、これが彼に取っての唯一の結論だ。