僕がブログ発信をする理由|さんざん独り占めしておいて「今度あげるから今ちょうだい」は通用しない

4歳の娘がおやつを食べていると、2歳の息子が、お姉ちゃんが食べているものが美味しそうに見えて、近づいていきます。娘は大好きなおやつなので、少しも分けたくない。

「あげたら?」と言っても「ヤダ!」と拒否して、大喧嘩になります。

そのおやつは一袋しかなかったので、2歳の息子には仕方なく別のおやつをあげます。

すると今度は、4歳の娘が、弟のおやつが欲しくなります。当初は力づくで奪いとろうとするケースもあったので、叱って、「ちょうだいって言ってみたら?」と諭します。

でも、お姉ちゃんが「ちょうだい」と言っても、弟は「イヤ!」と言ってそっぽを向いてしまいます。

まぁそれはそうだよね、と苦笑しながら、娘にだいたいこんな内容を話します。

「意地悪をしたら、同じだけ自分も意地悪されるんだよ。でも、優しくしたら、自分も優しくされるんだよ。どっちがいいか、よく考えてごらん」

判断を委ねると、大抵は泣きながら「優しくする〜(×_×)」と言うんです。

8割の損失があっても損ではない

もう少し年齢が上がってくると、この法則は成り立たなくなります。100回優しくしても、20回くらいしか返ってこないかもしれません。

でも、80回の損失があるからと言って、それで損ではないんです。なぜなら、先に自分から贈与しなければ、ほとんどの他人は何もくれないから。

娘のように、自分が欲しくなってから「あのとき意地悪しなければよかった」と気づいても、あとの祭り。さんざん独り占めしておいて、「今度はあげるから、今ちょうだい」は通用しない。

これってまさに、社会の仕組みそのままだと思っています。

発信は無償の贈与でもある

僕が個人メディアで発信をする理由は様々で、フリーで働く身としてインバウンドマーケティング的(ライター依頼の受注などに繋げる)意味合いもあれば、年間40〜50万円程度ではありますがGoogle AdSenseやAmazonアソシエイトでの収入に繋げる意味合いもあります。

一方で、無償の贈与という意識もあります。

情報発信ノウハウ記事、学生向け記事、ライフハック記事は、課題を抱える誰かの役に立つかもしれません。

子育てやワーク&ライフスタイル記事は、日常の気づきを(自分の内にしまい込んでおくのではなく)シェアすることで、誰かが考えを整理したり、気づきを得るきっかけになれるかもしれません。

ソーシャルイノベーション関連記事は、ナイスな活動をしている誰かの情報発信を、微力ながらお手伝いしている感覚です。

発信しても8割9割は、何の反応もありません。

独り占めしていればそれなりの値段で売れるかもしれないスキルを、WEB上でオープンに発信しているわけなので、考え方によっては損をしているのかもしれません。

スキルレベルが低かった他人が、同じだけのスキルを身につけてしまっては、商売にならないからです。

あるいは、誰かの情報発信を手伝っても、直接的には何の収入にもなりません(厳密にはアフィリエイト収入等に繋がる可能性はありますが、割合としては本当に微々たるものです)。

その時間を外部寄稿記事の執筆に当てれば収入が増えるわけで、結果的に損をしているという考え方もできるでしょう。

直接収入よりも素敵なお返し

でも、1割2割は返ってきます。

そしてその1割2割の大半は、お金で買うのは難しい貴重なものです。

先月は僕が運営するメディアのひとつである『FutureCenterNEWS JAPAN』の読者の方から、地方での講演依頼をいただきました。

まとまった額の報酬付きだったのもさることながら、ぜひやりたいと思えるような、おそらく現状では自分にしかできない面白い仕事だったのがすごく嬉しかったんです。

FutureCenterNEWS JAPANに関してはマネタイズを一切しておらず、完全に無償の活動です。もし、儲からないから、と発信をしていなかったら、僕は絶対に今回の仕事に出会えなかったでしょう。

お菓子を分けてあげなかったら、自分がほしいときにも分けてもらえないよ?

社会は、ひとりひとりが、互いにプラスの影響を与え合うことで回っています。

物を売ることも、サービスを提供することも、コンサルティングも、コンテンツ制作も、誰かの課題を解決したり、誰かを満足させたりという価値があるので、対価としてお金が支払われます。

もちろん自分の利益ばかりを優先する人もいるでしょう。

でも、自分自身の一昔前を考えても、利己的な生き方しかできないと社会の中で孤立します。

自分の利益は望みどおり確保できているのに、なぜか穏やかになれなかったり、生き方に満足できなかったりします。

我が家の姉弟喧嘩ならば「お菓子を分けてあげなかったら、自分がほしいときにも分けてもらえないよ? それでもいいの?」という感じですね。

ちなみに今朝はオモチャの取り合いがあって、4歳の娘は意地を張って、「貸してもらえなくてもいい(から貸さない)!」と突っぱねていました。

それで本当にいいんなら、特にこちらから言うことはないんですよ。

無償の贈与は社会での居場所をつくる

発信は、受け手の存在を想定するのが大原則です。誰かにとって役立ったり、誰かが満足したりするからこそ、価値があります。

つまり発信は、それ自体が誰かにプラスの影響を与え、立派な贈与になります。

他人にプラスの影響を与える人は、誰かからお返しが得られます。それが金銭である場合もあるでしょうし、金銭以外の何か(おもしろい活動をする機会であったり、仲間だったり)であるケースもあります。

こうして社会の中で役割が得られると、徐々に自分の居場所が定まってきます。何もせずに居場所がもらえるなんてことは有り得ないんです。

僕はこどもたちに、自分の居場所を自分で見つけて、自分らしく生きられる人に育ってほしいと思っています。

だから、「意地悪をしたら、同じだけ自分も意地悪されるんだよ。でも、優しくしたら、自分も優しくされるんだよ。どっちがいいか、よく考えてごらん」と問いかけています。

それにブログ等での発信は、個人的にすごく使い勝手がいいんですよね。

例えば僕は、老人の荷物を持ってあげたり、落とし物を一緒に探してあげたりするのが苦手です。

感謝されるのが負担、と言ったら変かもしれませんけど、頭を下げられたりするとむしろこちらが頭を下げたくなります。

インターネット発信なら、発信者と読み手の間に距離があるので、よほどのことがない限り、直接的に感謝の言葉をもらうことはありません。

探し物を見つけて相手に手渡しておきながら、気づかれずに逃げられるみたいな、うまいことになります。