“選挙が何よりも大切” という時代は終わった

東京都知事選挙が終わりました。

この記事は、投開票前に書いているものなので、どんな結果になっているかはわかりません。

ただ一つだけ想像できるのは、私たちの多くは、ある共通する思いを抱いているはずだということです。

モヤモヤする。どこか腑に落ちない。これで良かったのか。

落ち着いて考えると、異様ではないでしょうか。

日本の中心である東京都のリーダーが決まり、その手続きには何の不備もなく、結果も明白であるのにもかかわらず、なぜか我々は積極的に支持する気持ちになれないでいるんです。

何が原因なんでしょうか。

候補者が悪かったんでしょうか。

選挙制度がいけないんでしょうか。

それとも我々の政治参加が不十分だから、的確な選択ができないでいる影響なんでしょうか。

有権者として責任を持とうとするほど無力感を覚える

これは、国政選挙や都道府県、私が住む横浜市のように、数百万人の中から代議士や首長を選ぶ選挙についての話です(東京23区の一部や、地方都市では、まだ選挙は有用なシステムである可能性があります)。

私はここ数年、自分自身の投票行動に自信が持てるように、かなり真剣に試行錯誤してきました。

それなりに、成果はありました。政策は実現されるかわからない、そもそも物事が複雑になりすぎて正解がわからない、だから “人” で選ぶべきだ、と。

選挙区の議員のインターネット発信には常に目を通し、疑問があれば議員の事務所を訪問し、ときには駅頭に立っている議員に声を掛け、その感触を元に投票することで、おおよそ納得できたんです。

具体的には、

・国政(県政、市政etc.)にはどんな課題があり、
・どういう利害が衝突していて、
・どんな理由があって一方を優遇しなければならないのか?

をきちんと説明してくれる政治家を選ぶということ。

でも。

こうして有権者として政治に責任を持とうとすればするほど、

「選挙(近代民主主義)って、全然ダメなシステムなんじゃないか」という疑念が首をもたげ、ついに頭から離れなくなり、今では確信に変わりました。

という疑念が首をもたげ、ついに頭から離れなくなり、今では確信に変わりました。

イギリス首相を務めたウィンストン・チャーチルは「実際のところ、民主政治は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」

民主主義 – Wikipedia

選挙で現実は変わる。が、けっして自分の思い通りにはならない

近代民主主義の問題点1:迂遠さ

確かに、私たちの社会は、選挙結果によって変わっていきます。

が、代議士を選び出し、議会に諮り、役所が計画し実行し、とやっていくうちに、私たち一人ひとりの思いは、いつの間にか消し飛んでしまっているように感じられます。

だから都知事選挙を終えた我々は、自問自答します。

これで本当によかったのだろうか、私たちが選んだ人はしっかり仕事をしてくれるんだろうか、と。

近代民主主義の問題点2:最大公約数のまやかし

あまりこのような区分は現実的ではないのですが、たとえば、右派と左派と中道の人が、3:3:4の割合で存在したとします。

選挙の結果、最も多い中道が政権を握ったとして、政権に不満を持つ人は、政権を支持する人よりも多くなります(右派+左派:中道=6:4)。

後述しますが、実際には我々の価値観は、この例とは比較にならないほど細分化されています。

どんな結果が出たとしても、国民の大多数が不満を持つという致命的な構造欠陥を抱えています。

※例外は、郵政選挙や、反自民など、いわゆるシングルイシューで選挙ができた場合です。が、これは目的が達成されれば雲散霧消する一時的な結束にすぎないのは、今まさに私たちが実感しているとおりです

誰かにとっての利益は、誰かにとっての不利益になる

民主主義の最も大きな矛盾は、誰かの思うとおりにしようとすれば、必ず他の誰かが不満に感じるという点です。

たとえば共産党や社民党が「消費増税絶対阻止!」と訴える。

よく見かける風景です。でも、選挙結果を受けてなお主張するのには、違和感があります。

国民が自民党政権を選択した現実があるのに、その自民党の政策を根本から覆そうとするのには、いったいどんな民主的根拠があるのか、と考えたことはないでしょうか。

もちろん、国会に少数派の意見を届けるという意味では、意義があります。

が、実際に少数派の意見を通そうとする行為は、圧倒的大多数の正反対の意見があるという現実と、どう向き合えばいいんでしょうか。

行き過ぎた市民運動全般にも、同様の困難さを感じます。

あなたちの主張はわかりました、でも僕らはそうは思わないんだけど……と感じる人は少なくないはずです。

※だから共産党や社民党がやるべきは、ちゃぶ台をひっくり返そうとすることではなく、議論のテーブルにつき、少数派が切り捨てられないように粘り強く交渉することだ、というのが私の意見です。そういうイメージが定着すれば、もっと支持が広がるはずなんですけど。社会保障を真剣に考え直すべき時期にきているのは間違いないので

偶然に多数派となれた一部の人は、こう思います。

自分はこうしたいんだ。反対の人がいるって? 民主主義で公平に決めたことだから知らないよ。

大多数を占める、さまざまな少数派の人は、こう思います。

いくら投票しても、ちっとも現実は変わらない。政治家が悪い。選挙制度が悪い。国民の意識が足りない。

問題が顕在化した理由は大義名分を共有できなくなったから

近代民主主義の問題点は、当然ながら昔から存在していました。

ではなぜ、以前は大きな問題とは認識されなかったのに、現代では無視できなくなりつつあるんでしょうか。

戦後と今で、いったいなにが違うのか。

端的に言えば、戦後は「欧米に追いつけ追い越せ」という一つの大義名分を共有できていた。

多少の矛盾があっても、見ないふりができていた(あるいは黙殺されてきていた)んです。

このあたりは、佐々木俊尚さんの著書『レイヤー化する世界』が理解を助けてくれます。

しかしながら日本は、一時、アメリカについで2位の経済大国にまで上り詰めました。

ここまで豊かになれば、もはや、規模が違うアメリカを追い越せとは思わないわけです(相手が中国ならば追い越されるのは悔しいという気はしても)。

「欧米に追いつけ追い越せ」という大義名分は意味をなさなくなり、かわりに “自分らしく生きる” という価値観を最上位に置く人々が増え始めます。

国家による社会保障を肯定的に考えればリベラリズム(私は現時点ではこちらに近い)、税金徴収・再分配にさえ否定的であればリバタリアニズムです。

豊かさと情報流通革新がクラスタ化を進行させる

もう一つ大きいのは、情報流通の革新です。

2000年頃まで、個人間の情報伝達手段は手紙や電話しかなく、情報流路はマスメディアがほぼ独占していました。

しかし今や、インターネット(Google検索やSNS)が風穴をあけ、情報流路には無数の支流ができています。

“自分らしく生きる” 派の我々は、「マスメディアが流す価値観は単なる選択肢の一つでしかない」と、容易に気がつきます。

腹の立つ価値観を無視し、居心地の良い場所を見つけようと流動します。

ちょうど、ダムでせき止められていた水のようなものですね。

ダムの壁面に無数の穴が空き、水は漏れだし、平行を求めてどこまでも流れていきます。

もはや、選挙という仕組みを使って、みんなで一つの価値観の容れ物に入ろうということが、不可能になったんです。

近代民主主義を疑わない限り、不満が蔓延する未来しかあり得ない

“自分らしく生きる” 派の登場と、インターネットの普及によって、価値観は細分化され、私たちは無数の小さなコミュニティを形成するようになります。

さきほど、左派・右派・中道という区分は現実的ではないと書きました。

ざっとインターネットを眺め回しているだけでも、若者と年配者の対立があります。

ひとくちに若者と言っても、10代と30代ではまったく価値観が異なります。

50代と70代でも同様でしょう。

もう一つ大きいのが、“自分らしく生きる” 派と、“国を豊かにしよう” 派の断絶です。

“自分らしく生きる” 派である私は、正直なところ、日本を経済的に強くしようとか、国際競争力を持たせようという方向性に、いまいちピンときません。

もちろん反対はしないし、国は豊かであるに越したことはないんですけど、何を犠牲にしても成し遂げなければならないとは感じません。

もちろん、どちらか一方だけでなく、両方が重要だという人もいる。

というより、各自が自分なりのバランス感覚を持っているわけです。

掛け合わせてみれば、膨大な分類の価値観が存在する事実が浮かび上がってきます。

価値観の細分化が進んだ社会では、最大公約数がほとんど何の意味もなさなくなります。

先ほど示したとおり、選挙でどんな結果が出ようとも、必ず不満を持つ人の数が、納得する人の数を上回ってしまうからです。

今のやり方を疑わない限り、不満が蔓延する未来しかあり得ません。

いや、すでに不満が蔓延する社会になっているのではないのでしょうか。

「投票率100%の社会が理想である」という幻想から脱却すべき

では、どうしたらいいのか。

私たちは「投票率100%の社会が理想である」という幻想から脱却すべきです。

もちろん、独裁を容認するのでなければ、選挙を切り捨てることはできません。

が、みんなが選挙に行けば暮らしが良くなるというのは、あきらかな誤りです。

もはや、私たちが最大公約数では納得することは、あり得ないんです。

大多数を占める、私たち様々な少数派の意見を反映させるのは、国政選挙や、知事選挙では不適当。

選挙だけでは何も変わりません。

これは論じてきたとおり構造的な問題であって、投票率を上げようが、選挙制度をちょっとばかり変えようが解決しません。

「諦めたら終わりだ」という意見は、思考停止であり、単なる根性論だと私は思います。

構造を理解し、現実と向き合わなければ、そこから先には進めません。

え? 他にやりようがないんだから、効率が悪くても続けるしかない?

いや、選択肢がなければ、作ればいいんですよ。

志のある人は、とっくの昔に政治に期待するのは止めて、自分の手で社会を動かしにかかっているじゃないですか。

我々は「選挙に行こう」と呼びかける代わりに、

「ねえ、私と一緒に、乳児の親がコミュニケーションできる場を作らない? 核家族での子育ては孤独で投げ出したくなった、って、あなたも言っていたでしょう。できる範囲で、何とかしたいと思わない?」

と呼びかけるべきなんです。

「老人たちに国を牛耳られてもいいのか?」という問い

選挙よりも身近な社会参加を優位に置くのであれば、私たちは「老人たちに国を牛耳られてもいいのか?」という問いに回答する必要があります。

あるいは、自分と価値観の異なる相手に、国政を任せられるか? とも言い換えられる。

YESと回答した人は、基本的に、現在の仕組みの延長で物事を考えることになります。

私はどちらかというと、こちら派です。

NOと回答した人は、現代的な国家観からの脱却を目指すことになります。

どうしても多数派のやり方に納得できなかったら、自分たちで国(あるいは行政単位)を作るしかないでしょう。

自分たちの主張を通そうとすれば、それでは嫌だと考える人が必ず出てきてしまう。

考え方が同じ同士で寄り添って、それぞれの理想を目指すしか、ほかにやりようがありません。

これは極論に聞こえるかもしれませんが、たとえばアメリカ合衆国のような、連邦共和制国家をイメージしてください。

アメリカのそれぞれの州は自治権を持っていて、それを権限の強い連邦政府が取りまとめる形です(州のような規模では大きすぎて合意形成が困難なのは同じなので、もっと細分化が必要だと思いますが)。

ただ、アメリカ合衆国成立時と異なり、現代にはインターネットが普及しています。

アメリカ合衆国のような国の作り方は正解ではなくて、むしろ古い時代の遺物であるのは間違いがなく、今ならばどんな形が理想なのか、私にはわかりません。

国が大切か、個人の幸せが大切かで棲み分けが進む

私は、自分と価値観の異なる相手に国政を任せてもよい、という価値観です。

そうせざるを得ないと思っています。

なぜなら、そもそも国と個人の利害が一致するがずないと考えるからです。

国は、国としてのアイデンティティを守り、国を維持し、国を発展させることを最優先に考える。

個人の幸せも重要だけれども、国あっての個人、という考え方です。

でも “自分らしく生きる” 派の我々は、個人の幸せを犠牲にしてまで、国を豊かにしたいとは感じません。

中には、別に領土問題なんかどうでもいい、国が弱くなったってかまわない、という人もいるでしょう。

だとしたら、国が何より大切で、国を豊かにしようと考える愛国者が国政を担い、“自分らしく生きる” ことを最上位に置く個人が手の届く範囲の社会を、自分の手で変えていく、と棲み分けが進んでいくはずです。

国政にただ一つ求めるのは「例外や少数派を排除しないこと」

私は、国という「枠」を大切に考える人たちが、国をどうしてくれようと、別に構わないと思っています。

たとえ意見が違っても、受け入れ共存するのが民主主義だからです(その意味では私は、“選挙が何よりも大切” という価値観から脱却すべきと言いながらも、近代民主主義の呪縛から逃れられていないんでしょうね)。

ただ、一つだけ要求したいのは、例外や少数派を排除しない、多様性のある社会にしてほしいということです。

「国としてはこういう方向性で行きますが、嫌な人は別の道もあります。好きに選択してかまいません。ただ完璧に整備はできないので、個々で充実させてください」

現実問題として、価値観が細分化された社会における国家や行政のあり方は、こうでなければおさまりが付かないでしょう。

常に「納得できる人」よりも「不満を持つ人」の数が上回り、政権は不安定になるからです。

国家は衰退するしかなくなります。

もし愛国者たちがマイノリティを排除しようとするのなら、そのときは諦めるしかないと思っています。

個人的には、日本を見限る選択も考えます。

元よりこれは選挙でコントロールできるようなことではない、という厳然たる事実が一つ。

そして、私が「これが正しい」と思っていても、他人はまったく違うことを考えています。

エゴで国をどうこうしようという気にはなりません。

“選挙が何よりも大切” という時代は終わった

“自分らしく生きる” 派の私たちは、勇気を持って言うべきです。

「選挙が何よりも大切、という時代は終わったのだ」と。

実は我々は、選挙なんかよりも確実で、格段に効率よく物事を変えていける手段を持っているんです。

これからの社会は、価値観の細分化により、役割分担が進んでいきます。

私たちは、国・県・市町村・地域・個人活動など、自らが力を注ぐ意義の感じられる規模のコミュニティを中心にかかわり、それ以外にはあまり注意を払わなくなります。

そして様々なコミュニティは、力を注ぐ人たちだけが動かすものになります。

国政は国という「枠」が大切だと思う人たちが動かし、地域やマイノリティ、セクター間の狭間の問題は、個人を重視する人たちが変えていきます。

私たちの身の回りにあるリアルな社会を、思ったとおりの方向に進めたいのなら、選挙なんかにこだわり過ぎずに、自分の手で動かしていけばいい。

例えば、港区議会議員の横尾俊成さんなどは、おそらく近い考え方で活動しています。

「社会を変える」のはじめかた 僕らがほしい未来を手にする6つの方法

蛇足ですが、東京都港区の人口は約20万人。

現状、区議になるには1,000票あれば充分であるそうです。

このくらいの規模であれば、我々の価値観が細分化され、クラスタ化が進んでいても、まだ最大公約数に意味が出てくるのかもしれませんね。