日本文学史が誇る傑作絵本『100万回生きたねこ』の作者として知られる佐野洋子さん(2010年11月死去)。
死後に出版されたエッセイ『死ぬ気まんまん』に語られる死生観が凄味を感じさせる内容で、たいへん素晴らしいので、紹介します。
“死” にフタをする現代の日本社会
人に死に触れる機会って、そうそうありませんよね。
特に、命が消えていく様子を目の当たりにするようなことは稀です。
病気の場合は病院で亡くなるのが一般的ということもあって、葬式で遺体に対面する程度でしょう。
これが戦中戦後では、大家族で兄弟が多く、栄養状態が悪いケースも多々。
医療技術も制度も未発達。
しかも死ぬのは自宅が一般的である時代でしたから、バタバタと身の回りで人が死んだといいます。
私の家族は目の前で、スコンスコンと何人も死んだ。昔は皆、病人は家で死んだ。
三歳の時、生まれて三十三日目の弟が、鼻からコーヒー豆のかすのようなものを二本流して、死んだ。あんまり小さかったので顔も覚えていない。(中略)
それから私の下の下の弟が大連から引き揚げて三ヶ月目に、またコロリと死んだ。
名をタダシと言った。その時、家は子供が五人もいて、八歳の私は四歳のタダシの子守係だった。
今でも私はタダシの柔々と丸っこい小さな手の感触がよみがえる。(中略)
次の年の六月の大雨の日に兄が死んだ。兄は一週間くらい寝た。母は半狂乱だった。
佐野洋子『死ぬ気まんまん』 p.59〜p.62
あまり母が泣き続けるので、父は寺の坊さんの所に母を連れていった。今にして思うが、母は宗教心のまるでない人だったから、坊さんは何の役にもたたなかった。二度行ってやめ、そして泣き続けた。
子育てをしていて、やはり死はタブーというか、極端に遠ざけられ、隠されるモノになっているのを感じます。
もし子供たちが、死を身近に感じないまま大人になって、突然誰か大切な人の死に直面したら、大変なショックを受けるんだろうと思うんです。
我が家では、子供たちに「目の前にある日常はいつ消え去ってもおかしくない」という事実を認識してほしいので、なるべく生き物の死に触れさせるようにしています。
人の死となるとなかなか難しいのですが、機会を見つけて、なるべく触れられるようにしたいと考えています。
何よりも命が大事だというのはおかしい
人の死は、もちろん大切に扱われるべきものです。が、一方で、必要以上に神聖視・タブー視されているようにも感じます。
平井 いま日本は、死ぬということをあんまり考えなくていいような世の中になってしまってますよね。
佐野 それで、死ぬということが悪いことのように考えられていますよね。
平井 そうですね。六十年前は赤紙が来たら戦争に行っていたわけですよ。家人も子供たちも死について真剣に考えていたわけです。ところが今は死ぬということを全然考えない。ガンになり突然、「あと一年で死ぬよ」と言われるもんだから、びっくりして焦るわけです。
死の哲学的な問題はいろいろありますが、「デス・エデュケーション(死の準備期教育)」といって、子供のころから教えることが大事だと言われています。要するに動物が死んだりすれば、「死とは何だ?」とやるわけです。
佐野 でも、いまはそういうのを隠すようになっていますね。
平井 ええ。タブー化するんですね。
佐野洋子『死ぬ気まんまん』P.89〜P.90 佐野洋子×平井達夫(築地神経科クリニック理事長)対談より
そんななか、佐野洋子さんは、「何よりも命が大事だというのはおかしい」と言い切ります。
佐野 やっぱり嫌なのは脳卒中ですね。それから考えると、私、ガンってとってもいい病気だと思いました。
平井 本当にそうなんですよ。脳卒中も予防が大切で脳ドックは絶対に受けたほうがいい。我々の静岡県藤枝市の病院にも療養病棟というのがあって、重症脳卒中で寝たきりとか、胃を切ってチューブを入れて栄養をやっている。それを法律的、倫理的にもどうするかがなかなか難しいんですよ。
佐野 生きているということは何かというのがありますでしょ?
平井 そうですね。
佐野 ただ息をしていればいいのかというと、人生の質というものもあるじゃないですか。それを、何よりも命が大事だというのはおかしいですね。
平井 おかしいですよ。
佐野 そう思いますか。
平井 思います。
佐野 嬉しい!
平井 医者はほとんどそう思っています。
佐野洋子『死ぬ気まんまん』P.86〜P.87 佐野洋子×平井達夫(築地神経科クリニック理事長)対談より
平井 日本人の死の準備教育の一環として、もう少し佐野さんにいろいろ言ってただけると、医者としては非常にありがたいです。
佐野 そうですか。要するに、自分なんて大した物じゃないんですよね。同様に、誰が死んでも困らないわけ。例えば、いまオバマが死んでも、必ず代わりが出てくるから、誰が死んでも困らないわけですよ。
だから、死ぬということをそう大げさに考える必要はない。自分が死んで自分の世界は死んだとしても、宇宙が消滅するわけでも何でもないんですよね。そうガタガタ騒ぐなという感じはする。
佐野洋子『死ぬ気まんまん』P.119〜P.120 佐野洋子×平井達夫(築地神経科クリニック理事長)対談より
普通の人が口にしたら、袋叩きにされるかもしれないような、かなり突っ込んだ発言です。
でも、余命宣告をされた後の佐野洋子さんが言うのだから、説得力があります。
100万回生きたねこは、どうして生き返らなかったのか?
僕は佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』が大好きです。
というか、絵本の中で一番好きかもしれません。
読んだ経験のない方は、Wikipediaのあらすじを見ていただくか、本屋さんで立ち読みしてほしいと思います(きっと夢中で読んでしまって、欲しくなりますよ)。
ひょうひょうと輪廻転生を繰り返すねこは、最後に、自分に興味を示さなかった白猫と一緒になります。
白猫が寿命を迎えたとき、人生で初めて悲しみ、本当の意味で死を迎えます。
100万回の人生を、ねこはどんな気持ちで生きていたのか。
どうして最後に生き返らなかったのか。
豊かな読後感が素晴らしいんですよね。
なお、子供が読んでも理解できないという指摘もあるみたいですが、僕はその意見には反対です。
子供を過小評価しないでほしいなぁと思います。
僕自身、子供の頃に読んで、『百万回生きたねこ』から受けた印象は別格でした。
感動するとか泣けるとかではなく、うまく言葉にできないのですが、静かな驚きに満ち溢れていたのを覚えています。
もし明日、死んでしまったとして後悔しないか?
人は誰でも100%死にます。しかも、いつ誰が死ぬかもわかりません。
親兄弟や親友はもちろん、我が子や自分自身だって、不慮の事故で明日突然消えてしまうかもしれないわけです。
僕自身、死から目を背けないようにしたいと常々思っています。
なぜなら、死の可能性を考えずにいると、後悔を生む可能性が高くなるからです。
「あのとき●●しておけば良かった」「もっと●●すべきだった」などなど。
この世から誰かが消えてしまうのは、とても喪失感のあることですが、絶対に避けられません。
だとしたら、喪失感以外に悲しみを生まないよう、全力で生きたいものです。
僕はときどき立ち止まって、明日死んで後悔する人はいないか? を問いかけるようにしています。
これは我が子に対しても同様です。
今まで子供たちが無事に成長してくれているのは、単なる幸運に過ぎないという事実を忘れないようにしたいと考えています。
たまには死生観について思いを巡らせてみるのも悪くないと思いませんか。
佐野洋子さんのエッセイ『死ぬ気まんまん』と絵本『100万回生きたねこ』。
どちらも素晴らしい作品です。
人生の余暇にいかがでしょうか。
おすすめです。