いつもの風景
保育園のイベントへ行くと、子供たちの作品が並べられている。でも、みんな同じに見える。作った本人(3歳の娘)でさえ、名札を確認しなければ、ときには区別がつかないくらい似ている。
卵パックで作ったワニ、段ボールで作った携帯電話、新聞紙と毛糸で作ったカレーライス等々。
色を塗ったり、シールを貼ったりは、確かに子供の自由だ。各作品にオリジナリティがあるのは間違いない。娘に「これ、作ったんだよ」と言われれば、純粋に一つの作品に対する評価ができるので、「おぉすごいね!」と心から言える。具体的に僕自身がなにかに困っている、というわけでもない。
ミッキーマウスやキリンを作ったら絶賛してあげるのに
でも、先週の金曜にカナダ・トロントの視察報告会へ行き、「多様性」というテーマを意識するようになった。トロントでは子どもの個性が最大限に尊重され、子どもそれぞれが持っている力を、のびのび発揮できるような教育がなされている。自分がやっている、あるいは目指そうとしている子育てはこれだな、と感じた。
トロント子育て支援視察報告会|『asobi基地』小笠原舞さん、小澤いぶきさん
すると……部屋に入ったときにまったく区別が付かない作品が子供の数だけ並べられているのが、ものすごく異様な光景であえるように思えてきた。
例えばお正月というテーマで何か制作するとして、全員にまったく同じ形の凧を作らせる必要はないのではないか。子供一人ひとりの多様性を尊重するというのなら、クレヨンでつける模様だけの自由でなく、独楽や羽子板を作らせてあげる自由を与えてもいいのではないか。
いや、まったくお正月に関係ない、お好み焼きや、ミッキーマウスや、動物園のキリンを作ったっていいと思う。みんながお正月らしい何かを作る中で、うちの娘だけがキリンを作ったら、偉業だ。必ず絶賛してあげるのに。
子供の可能性を殺しているのは大人であり社会
親の多くが知らないだけで、子供は偉業の塊だ。放っておけば、どんなものでも遊びの道具にするし、どんな些細な出来事でも大笑いできる。「そんなもので遊ぶのは(汚いから、散らかるから、つまらないから)やめなさい」と子供の能力や可能性を制限しているのは、大人以外の何者でもない。
とはいえ、一方で、全く同じに見えて安心する親が少なからずいるだろうな、というのもよく理解できる。別の言い方をすれば、自分の子の作品が、他の子の作品に劣っていなくてホッとするのが、日本社会の大勢を占める価値観ではないか。
だから、保育園が悪いのではない(実際、いい保育園だと思う。むしろ、感心させられることのほうが多い)。親や社会のニーズに応えているだけなのだから。認可保育園では、マジョリティを無視するような方針は、無謀以外の何ものでもないはずだ。
何を得て、何を失うのか
答は出ない。
異様な光景だと感じる一方、保育園にしてみれば(実情を考慮すれば)ベターな方針だとも思う。
それに個人的には、多様性を育くむ教育を行ったとして、何を得るのかはっきりとはわかっていない。そして何を失うのかも見えない。震災があっても略奪が起きない国民性は誇るべき、と多くの人が考えているんじゃなかったか。ただ、多様性を育む教育のほうが好きだな、という感想が現時点でのすべてだ。
我が家の場合は、子供の多様性を伸ばす子育てをする時間的余裕もある。やりたければ、やればいい。僕はそのためにフリーエージェントになった(妻は元々、実家の自営業の手伝いなので、ある程度の自由がある)。でも、フルタイム&共働きの家庭はどうなるんだろう。最大公約数の教育のみを受けていたら、きっと子供の多様性は殺されるのだから。