尾崎豊のように窓ガラスを割ることなく、早くから自分らしく生きることに全力を注ぐために

若者らしい過ちで炎上する若者をバッシングする気になれないのは、自分自身の人生の否定にしか繋がらないと感じるからです。

佐々木俊尚さんの意見は、とてもよくわかります。

一方で、社会のあり方が変わった今、社会を学ぶ過程を変えるべきなのかもしれません。

早くから世の中の仕組みや多様性を見せ、自分らしく生きるためのスキルを教えることができれば、若者のうちから自分らしく生きることに全力を注げるかもしれないと考えています。

 

青年期とは、社会を理解する過程である

中学生、高校生くらいになると、社会の存在を意識し始めます。

でも、社会が魅力的であるようには見えません。

それはそうでしょう、夜遅くまで働いて疲れ切って、文句や愚痴ばかり吐いている大人たちを見ていれば、ネガティブなイメージ以外、持ちようがありません。

自分自身の10代〜20代前半を思い返しても、若者にとって社会は、得体が知れないものなのだと思います。

多くの場合、親も学校も、誰も社会の仕組みを教えてくれません。

未知の恐怖に怯える、と言って過言ではないでしょう。

どうやら将来的に社会に出なければいけないようなのに、そこに自分の居場所、自分らしく生きられる未来が、あるようには見えないんです。

だから社会の外に居場所を作ろうとするし、俺は型にハマらないとアピールしてみたくなります。

でも、誰もが通る道という意味で、社会の外側に居場所を作ろうとする行為そのものが、型にハマっているんですよね。

ある日、釈迦の手のひらの上だと悟らざるをえなくなります。

社会的でないことをして、強がってみせても、所詮は小さな小さな自分の回りの世界でだけ。

社会の存在は盤石で、社会に関わらなければ生きていけないと思い知らされます。

 

むしろ、きちんとできる若者の存在に驚く

僕個人について言えば、社会の仕組みを知らなかった影響が本当に大きかったですね。

いま、子供たちとの毎日を中心に据えて、やりたいことだけをやってお金を得て、まぁ現実問題としてもう少し収入を増やす必要がありますが、日常には本当に大部分で満足しています。

が、やっと自分の居場所が見つかったかな、と思ったときには30歳を超えていました。

中高生の頃から数えて15年ほどものあいだ、ずっと社会とうまく折り合いを付ける方法がわからなくて、尖ったり、人と違うことをやってみたり、とりあえず働いたりしてきたんです。

僕は学生団体にWebマーケティングを教えたり、学生ライターと一緒に仕事をしたり、学生と関わることが一般的な社会人よりは多いのですが、学生が怠慢を働いても怒りは湧いてきません。

むしろ、ちゃんとできないのが普通で、社会的マナーが備わっている学生を凄いと思うくらいです。

「なにがあなたをそうさせたんだ」と不思議に思いますよ。

少なくとも自分を基準にすれば、学生とはそういう存在です。

もちろん、ちゃんとできない学生に「できなくていいよ」とは言いません。

でも、逆に叱り飛ばすケースも少ないです(全力で向かってくる学生には、精一杯応えますけどね)。

そんなことせずとも、学生は何かを失っていることに心の底では気づいているんです。

積み重ねがあって、ふとこれじゃダメだとし切り直せる人と、そうでない人がいる。

それはその人の人生であって、僕が叱ったからと言って変わるようなもんじゃないと思っています(もっとも、教育機関の場合は叱らないわけにはいかないでしょうけど)。

 

日本社会に蔓延するすさまじい悪意

若者らしいよくある過ちをTwitterに投稿して炎上した若者のほとんどは、Twitterが全世界発信だと理解していると僕は思います。

この点で言うと僕は、低学歴がどうだという言説から距離を置いています。

知識がないケースもあるのかもしれませんが、TwitterとLINEの区別がつかないわけがないんです。

でも、投稿が広まり影響力を持つとは思っていない。

なぜなら普段は、何を投稿したって、誰にも見向きされないんですからね。

社会は徹底的に若者(に限らず、一個人)に無関心なんです。

Twitterユーザならわかるでしょう。大してフォロワーのいない私たちの投稿が影響力を持つとしたら、余程の力が加わらなければいけません。

冷凍庫に入っただけで学校や仕事を辞めさせられた若者はきっと、社会のすさまじい悪意に唖然としたと思うんです。

なぜ小さな小さな自分ひとりに、こんなにも鋭利な悪意が向けられるのか?

(直接的な被害者なら別ですけど)自分には何のメリットにもならないのに、警察に通報してくれたり、学校やお店に電凸してくれたりする暇人がわらわら湧いてくる。

 

制裁は悪循環を生む

それが清濁併せ呑んだ社会というものです。

好き嫌いは別として、受け入れざるを得ない事実です。若者は、知らずに触ってやけどをしただけなのかもしれません。

でも、そんな形での社会とのファーストインパクトって、幸せでしょうか。

僕が心配なのは、こうした制裁が、社会に対するネガティブなイメージを助長する結果になるだろうことなんです。

考えてもみてください。自分を全否定した社会なんかに、居場所を見出そうという気になりますか?

どんなに逃げ回っても、一般的には社会に出なければならない時が来ます。

僕のように社会との折り合いの付け方を見つけられなかった者は、大きく2つの道を歩みます。

あがき続けるか、それとも自分を殺すか。

自分を殺した人たちは、過剰なストレスを抱きます。

「俺は我慢しているんだから、我慢しないお前は制裁を受けろ」と強権的になり、悪意が蔓延する居心地の悪い社会を生みます。

人々は余計にネガティブなイメージを抱き、社会にうまく馴染む機会を失い、自分を殺して社会人になる人が増えていきます。

自分の人生に不満を抱く人が、自分で自分の首を締めつける悪循環です。

 

自分の居場所を見つけられていない人は他人を許せない

先月、大学の同級生の結婚式に行って、学生時代には存在が許せなかったとある同級生を、許せるようになっていた自分に気づきました。

まぁ面倒ではあるけど、だからといってこちらの存在が脅かされるほどでもないので、側に居ても気にならなくなったんです。

自分の何が変わったのだろうと不思議に思って考えると、やはり今の日常を手に入れたからだろうという結論に達しました。

闇雲だった学生時代はもちろん、とにかくやってみなきゃわからんと働いていた頃、子供が生まれることになって生活費のために働いていた頃など、どの時期でもその同級生に対して攻撃的になっていたに違いありません。

自分の居場所を見つけられていないと、他人を許せないのだと気づきました。

“自分だからこそできること” を見つけられた時点で、他者に対して想像力を働かせたり、寛容でいられたりするようになったんです。

 

尾崎豊のように窓ガラスを割ることなく、早くから自分らしく生きることに全力を注ぐために

僕自身のケースで言えば、「社会に自分の居場所があるんだ」と知らなかったのがすべてでした。

社会との関わり方がわからなかったんです。

社会の中で、自分だからこそできることを見つけた時点で、うまく回り出しました。

僕は間違ったことをたくさんして、あれじゃない、これじゃないと可能性を次々に消して行き、徐々に社会を知り、居場所を見つけました。

若者らしい過ちを犯す彼らを否定してしまったら、自分自身を否定する羽目になります。

だから彼らをバッシングする気になれないとは、冒頭に書いた通りです。

とは言えこれも、一個人の体験に過ぎないので、真理だと言うつもりはありません。

社会のあり方が変わってしまったのだから、むしろこれからは、違った方法で自分の居場所を見つけるべきなのかもしれません。

 

世の中の多様性を見せ、自分らしく生きるためのスキルを教える

僕自身、子供たち(いま4歳と2歳です)の教育にあたって真っ先に考えたのは、「いかに社会の仕組みと、世の中の面白さを教えるか?」なんです。

学問も知識も二の次だと思っています。これは、もっと早く社会の仕組みを知っていれば20代にたくさんのことができたのに、という自らの教訓に端を発しています。

僕は自分の子供たちに、いろいろな生き方をしている人がいて社会が成り立っているんだと教えたいんです。

世の中の多様性を知れば、自分らしいやり方で社会に関わる方法を(自分の居場所を)すんなり想像できるかもしれないと思うんです。

尾崎豊のように窓ガラスを割ることなく、早くから自分らしく生きることに全力を注げるかもしれません。

僕にできることは、自分のこどもたちを、居場所を見つけるために馬鹿をやらざるをえない人間に育てないこと。

社会の仕組みを見せ、多様性を実感させ、自分らしいやり方で生きるためのスキルを教えれば、そうはならないはずだと考えています。

違った意味では、馬鹿をやってほしいですけどね。

いまその時しか味わえない馬鹿なことは存在しますから。

「それをやっているのが公になったら怒られる」とわかっていれば、たとえ制裁に近いような攻撃を受けても、立ち直れるに違いないと思うんですよ。