マイノリティの存在は尊重されるべきですが、多様性の名のもとに権利を口うるさく主張して、足を引っ張り合う窮屈な社会には反対です。
僕は多様性を受け入れる社会とは、互いの価値観の違いを認め合える社会だと考えます。
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多様性を受け入れる社会とは足を引っ張り合う社会なのか
今朝、佐々木俊尚さんのキュレーションで、こんなツイートを見かけました。
私は小倉弁護士の神道に対する見方に賛同するわけではないけれど、小倉さんのいうような多様性の許容はすごく大切だと思う。/小倉秀夫さん「そもそも神道自体、明治時代にそれまでのものと断絶しているのだからなあ」 http://t.co/Xtv7U6rFEh
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) October 8, 2013
小倉秀夫さん「そもそも神道自体、明治時代にそれまでのものと断絶しているのだからなあ。」 – Togetter
神道の認識に関する議論については、特に感想はありません。神道は大昔から一貫して日本人の心のよりどころだった、という考えは、よくある誤認です。まぁ当然の展開でしょう。
僕は國學院大学卒なので、同級生の友人の半分くらいは神職です。彼らが、いわゆるネトウヨみたいな短絡的な誤認をしているケースはまずありません。近代神社神道史を1年かけて学んでいるわけですから、当然です。職業上の必要性があって、一般人よりしっかり勉強しているわけです(もっとも、個々で見れば変なヤツもいるんだろうけど)。
ゆいいつ引っかかったのが、多様性についての考え方なんです。
そういう日本人もいるし、特定の宗教のみを熱心に信仰している日本人もいると言うことで、後者を斬り捨ててよいと言うことにはなりませんね。RT @yamamoto8hei: 初詣で神社にお参りし、教会で結婚式を挙げ、仏式で葬儀を行う、宗教色に特段の拘りを持たない日本人に、
— 小倉秀夫 (Lee mi prof) (@Hideo_Ogura) October 5, 2013
いえ、神道は嫌いだけど、戦没者は追悼したいという人に不利益を課すことになりますね。RT @yamamoto8hei: そもそも国家指導者が靖国参拝を行う事が、即ち宗教的迫害になる訳でも無く、ましてやマイノリティを切り捨てる事でもない。
— 小倉秀夫 (Lee mi prof) (@Hideo_Ogura) October 5, 2013
この理屈を採用すると、もし無宗教で追悼すれば、「無宗教は嫌いだけど、戦没者は追悼したいという人に不利益を課す」結果になりませんか? そんな人は存在しない、あるいは極めて少数だからいいんでしょうか。
誰もが納得する妥協点など存在しない
当記事は、多様性を受け入れる社会のあり方についての考察です。が、乗りかけた船なので、戦没者慰霊を例に話を進めます。
僕自身は、無宗教が嫌いということはありません(というか、信仰心の有無から言えば無宗教に分類される人間です)。ただし、無宗教で追悼するのには違和感があります。シンプルな理由なのですが、故人の慰霊を無宗教で行うケースに遭遇した経験がないからです。葬式ならば大半が仏教で、たまにキリスト教式や神葬祭に出くわすことがある、というのが、日本人の多くの感覚であるはずです。
もちろん無宗教で行うケースもあるとは耳にしますが、実際にそういう現場に出くわせば、なんだか落ち着かない気分になるだろうと想像します。
多数が正義だ、と言うつもりはないんです。マイノリティの存在は尊重されるべきです。ただ、誰もが納得する妥協点を探せばすべてが解決すると考えるのは間違いだと思います。
第一に、誰もが納得する妥協点など、本当に存在するんでしょうか? 特定の宗教で追悼するべきでないからと、無宗教で追悼する。では、無宗教が嫌いな人は、どうしたら尊重されるんでしょうか。どこまで行っても答は見つかりません。
第二に、妥協に妥協を重ねれば、文化や習俗を無視する結果になります。もし無宗教での追悼を最善の妥協点とした場合、日本人の大多数がなじまない方法を採用するという結論になります。
もちろん、公的な祭典は文化に関係なく無味無臭であるべきだ、という考え方もできます。
ただ、そうあるべき理由が「アメリカがそうだから」では弱いでしょう。諸外国には諸外国なりの理由があって、無宗教で祭典を行っています。おそらく、そうあるのが一番おさまりが良いんです。
日本ではどうでしょうか。いま現在、戦没者を神道式で慰霊する以上におさまりのよい方法は、存在するんでしょうか。あるいは身体感覚として、神社に参拝する以上に戦没者と向き合える仕組みはあるんでしょうか。
あまり深く考えてはいないので、もしかしたら存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。この点、ご意見があれば頂戴します。
関わらない自由がある限りは現状を支持する
誰もが納得できる妥協点が必ず存在すると考える人は、この考え方は受け入れられないかもしれません。
でも僕は、誰もが納得する妥協点など存在しないと思っています。であれば、(日本史がどうとか、神道の歴史的位置づけがどうとかではなく)いま現在の日本人にとって、もっともおさまりのいい、日本らしい方法を採用するのがベストだと思います。
そもそも、「多様性を受け入れる」とは、マイノリティの意見をすべて受け入れて徹底的に妥協点を探ることではないはずです(そういうタイプも存在するのかもしないけど)。
僕は、多様性の名のもとに個々が権利を口うるさく主張して、足を引っ張り合う社会には反対です。だってそんな社会、窮屈でしょう。
ただ単に、互いの価値観の違いを尊重する懐の広ささえあれば、多様性を受け入れる社会は成り立つんです。日本人の大多数は、キャリアや人間関係では多様性を受け入れるのが苦手ですが、だからと言って多様性をすべての面で否定する国民性でもないと思っています。
戦没者追悼に関して言えば、総理大臣が参拝しようがなんだろうが、日本人ひとり一人が靖国神社参拝を強要されないのであれば、何の問題もないと思います。
別の理由(右傾化の懸念だとか、政治的理由だとか)で反対する人はいるでしょうが、多様性の観点からは、僕は現状維持を支持します。