子供にやりたいことだけをやらせる「サドベリースクール」についての私的まとめ

自分のこどもたちに、柔軟な教育環境を用意してあげられるように、お勉強。

サドベリースクールという選択肢についての整理と、調査後の見解など。

サドベリースクールとは

サドベリースクールとは、アメリカの私立校『サドベリー・バレー・スクール』をモデルとして、世界各国で展開する学校。

日本と世界のサドベリースクール | 一般財団法人 東京サドベリースクール

一言で表現すれば、本人がやりたい思ったことだけをやらせる学校。

通常の学校のように決められたカリキュラムに沿って学ぶようなことは一切しない。

読み書きですら、本人が必要としなければ教えないし、一日中ゲームをやっていても誰も咎めない。

特徴は、学校によって違いはあるようだが、おおむね、

・異年齢と一緒にすごす
・好奇心や自主性を最大限尊重し、何をするか、しないかを自分で決める
・問題が発生したときは話し合いによって解決する
・生徒が学校運営に携わり、大人と同等の一票の権利が付与される
・学びとは異なり、合議で決めたルールは守らなければならない

など。

サドベリースクールに魅力を感じる私的理由

端的に言って、

何か必要になった時、どうすればいいのか。それこそが社会で必要な生きる力であると考えています。

よくある質問|一般財団法人 東京サドベリースクール

この価値観に同調するから。

個人的に、たとえば因数分解ができなくても、何の問題もないと思っている。

必要になったときに、学べばいいのだと気づくことができ、学ぶ方法を洞察できる人間でありさえすれば、一切困る場面はない(社会に出て、企業で働き、のちに個人事業主として独立してやっている実感から)。

「何かが必要になったときに、どうすればいいのか」を考える力は、繰り返しやってみる意外に身につける方法がない。

義務教育を利用するのであれば、家庭で繰り返し経験できるような環境を用意しなければいけない。

どちらが良いのかは、家庭やこどもの個性それぞれだし、一概には言えないが。

加えて、義務教育と比較して、サドベリースクールのほうが、広く世の中の多様性に触れられるように見えるから。

狭い選択肢しか知らなければ、社会の中で自分の居場所を見つけるのに苦労する。

これは、義務教育で育った自分自身の実感から。

サドベリースクールへの批判

Google検索で「サドベリースクール」と入力すると、他のキーワード候補として「サドベリースクール 批判」というワードが出てくる。

が、こちらが顔を真っ赤にして否定したくなるような、本質を突いた批判は見当たらない(人によって印象は異なるはずなので、各自、要確認)。

成功の指標を昭和の価値観で捉えようとする人にとっては、感情的に批判したくなるのではないか、という感触。

例えば、いい大学に入って大企業に就職すれば勝ち組、と考えれば、人間の本質的な能力よりも、学校の成績のほうが重要なわけで、サドベリースクールのやり方は「将来困ったらどうするんだ」という批判に繋がる。

逆に、たとえ貧乏でも社会の中で自分らしく生きられれば勝ち組、と考える人にとっては、有用な方法論だと感じる人が多いのではないか。

サドベリースクールはいわゆる「正解」ではない

サドベリースクールで学んだからと言って、将来が保証されるわけではない。

基本的にゼロベースで将来に向き合う。

少なくとも、モデルになるようなキャリアの人を参考に、傾向と対策を考えるようなことは、極めて困難。

サドベリースクールを選択する際の留意点

こどもが何を「やりたい」と思うかは、こどもにどんな刺激を与えているかによって変化する。

当然ながら、知らないことについて「やりたい」とは思えない。

すなわち、こどもにどんな刺激を与えるか、あるいは不自然な刺激は与えないのか、という問題がある。

Q:自分がやりたいこと、というのがあるが、縁でしかないと思う。自分がやりたいことをどう見つけるものか、そもそもそんなものがあるのかどうか。

本田さん:これはサドベリー内でも意見がわかれるポイントですね。たとえば、ボストンの本校では過刺激を与えてはいけない、と考えています。変に刺激を受けさせてくないので、なるべく講演会などはやらない方針です。退屈を提供しないといけない、と考えています。一方で、ワシントンとかシアトルでは、ゲストスピーカーの話を聞かせる機会を用意している。

どれが正しいとはいえないが、個人的には才能にあった人と出会うと人生は変わると思う。それを学校のなかで人為的につくるのはちがうじゃないかな、とも思う。

よしもとさん:家庭の環境のなかに面白い人との出会いがあるというのは基本だと思います。学校は枠、箱。外から人が来て色々やるのは違うのかな、と思う。

小説家・よしもとばなな氏「小学校3年で勉強は捨てました」 : イケハヤ書店

刺激に関しては、サドベリースクールに過度な期待はできないし、期待するべきではないのではないか。

つまり、親がこどもに与える影響にしっかり覚悟をしつつ、家庭環境の中で様々な体験ができるようにするしかない。

サドベリースクールでなければならないのか、という疑問

本人のやりたいことだけをやらせるだけであれば、家庭でもできる。

わざわざサドベリースクールを利用する価値はなんだろうか?

◇好奇心を伸ばす自由

ホームスクーリングでも可能。

◇自主性が育まれる環境

これは意外に、ホームスクーリングではかなり難しい。どうしても親は子に口出ししてしまうし、親の価値観で規定してしまいがち。意識の持ち方次第で不可能ではないと思うが……。

◇異年齢の中で過ごす
◇生徒の学校運営への参加(ミーティング)
◇話し合いで解決

ホームスクーリングでは極めて困難だが、他のコミュニティを活用すればできるかもしれない。

が、自分がやりたいことを自分で決めてやっている人たちの中で日常を送る、というコミュニティがそうそうあるだろうか? という疑問はある。

要調査。

◇自分のことに責任を持つ

こどもは家にいれば、親に甘えてしまうので、これも難しい印象。

特に低年齢では、安心して甘えられる対象であるのが、親の役割でもある。メリハリを付けて対応すれば済む問題なのかどうか?

現時点では答えが出せず。

◇アドバイザー制度
こどもが何かを「やりたい」と思った際に、適切な先生を引き合わせられるかどうか。

それぞれの環境によるが、一般的には個人の人脈等よりもスクールのほうが優位ではないか。

※以上の項目は、東京サドベリースクールの教育の特徴より。

結論としては、

「異年齢、かつ自分がやりたいことを自分で決めてやっている人たちの中で日常を送る」

という条件が、サドベリースクール以外では極めて困難なように思われる。

サドベリースクールの効用を直感的に理解できる理由

最後に、まとめている僕自身のバイアス(価値観の偏り)について。

そもそも実家の方針は、半分サドベリースクールのようなものだった。

中学以降、進路や選択に口出しされた経験は(覚えている限り)一切ない。

中学校で、高校受験を控え、成績が悪かったときに、塾へ通う提案をされたくらい。

それも、強制的に行かせられている感覚はなかった。

成績を良くする他の方法が思いつかなかったし、「しゃーない行ってみるか」という感じ。

実際に通ったら、勉強の仕方がわかり、成績が大幅に上がった。

高校は中退しているが、「嫌なら辞めなさい」と特に母親が後押ししてくれたほど。

結果として、本当に学びたいことを学ぶために大学へ進学でき(國學院大学・神道学科。神社について学ぶの、本当におもしろかった)、大学生活にはいい思い出しかない。

卒業後も、一般企業へ就職して定年まで働くイメージは全く持っておらず、自分の好きな事、得意なことをベースに考えることができた。

紆余曲折あったものの、結果として、天職と言っていいような仕事をして毎日を送ることができている。

よって、いわゆる一般的な進路を歩む意義については疑問を持っている。

我が子たちに関しても、たとえばサドベリースクールを強制しようとは思わないが、義務教育に息苦しさを感じるようであれば、いつでも他の選択肢を用意できるようにしておこうと考えている。

【東京サドベリースクールに招待いただき、遊びに行ってきました】

【取材レポート】授業のない学校『東京サドベリースクール』へ娘と遊びに行ってきました。