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181月

寄付文化が必要とされる本当の理由

みなさんは、なぜ寄付をする必要があるのだと思いますか?

「それが善い行いだから」が回答では、あまりに胡散臭いと感じませんか?

慈善活動が目的なら、他にいくらでも方法があります。そこでわざわざ、お金を出すように呼び掛けるのは、何か裏があるんじゃないか……と勘繰りたくなる人も多いんじゃないでしょうか。大抵は、私たちにとって見ず知らずの団体が募っているケースが多いので、寄付したお金が何に使われるのか心配になるケースも少なくありません。

 

東日本大震災時、普段は寄付をしない人たちが寄付したのはなぜか?

震災直後、多くの人が被災者のために寄付をしましたよね。大半が、普段は寄付をしない人だったはずです。

なぜ、いつもは寄付をしないのに、東日本大震災のときにはこぞって寄付をしたんでしょうか?

お金の用途が不透明という意味では、むしろ日常の寄付よりも条件が悪かったように思います。実際、寄付した方の多くは、自分のお金が何に使われたのか把握していないはずです。

少なくとも「それが善い行いだから」という理由で寄付した方は、そう多くはなかったと思われます。

 

助けたい、応援したいという純粋な気持ちのあらわれ

僕自身の当時を振り返ると、強烈な印象として残っているのは「被災者や被災地のために、自分にも何かできないか」という思いです。

助けたい、応援したいという気持ちがあり、じゃあ不足しているだろうものを寄付しよう——被災者が必要とする物と、自分が提供できる物を考えたときに、食料だったり、暖房器具だったり、燃料だったり、あるいはお金であったりしたわけです。

 

各自治体はもちろん、企業や著名人も寄付を募った

東日本大震災直後、各自治体はもちろん、企業や著名人も寄付を募ったのは記憶に新しい。

 

寄付がなければ、国や行政がすべて再分配

寄付の意義を浮かび上がらせるために、もし寄付という行為が禁止されていたら、どう対処されたのかを考えてみたいと思います。

寄付が存在しなければ、物資の調達から資金の投下まで、被災地の復興は、すべて国や行政が行うことになります。国や行政の資金源は、もちろん税金です。国や行政がいったん国民からお金を預かり、それを(私たち個々ではなく)国や行政の判断で、再分配する結果になります。

 

制度上は公平である一方、現場のニーズを的確に汲めない恐れ

国や行政をまとめる政治家や首長は、選挙で選ばれています。国や行政が再分配するのは一見、公平なように見えます。

しかしながら、致命的な問題を抱えてもいます。細かいところへ目が届かず、現場のニーズを的確に汲めない恐れがある点です。

実際、被災地では、避難所ごとの格差が問題になりました。ある避難所には充分すぎるほど物資が届くのに、ある避難所では満足に食べることさえできない。南相馬市の桜井市長が、YouTubeで窮状を訴えたのを覚えている方もいるんじゃないでしょうか。

南相馬市長ユーチューブで「SOS」 「兵糧攻め状況だ」に世界から反響 (1/2) : J-CASTニュース
だからこそ、NPOや、阪神大震災時の経験がある個人がボランティアで入り込んで、「ここには食料が必要、ここには人手が必要、お金はあっちへ回してほしい」というように、情報や物資の不均衡を是正しようという動きがありました。

もちろんボランティアも「人手」や「ノウハウ」の寄付です。国や行政の力だけでは、被災者はもっと苦しい目に遭っていた可能性があります。また、分配すべき物資や資金があったからこそ、彼らのディレクションの意味があったのも言うまでもありません。

もし国や行政が全権を握っていたら、「こっちに必要です」と誰かが言っても、「いや、予算が足りないから」と返されてしまえば終わってしまいます。

震災直後という緊急事態であれば、国や行政も「予算が足りない」と返すケースは少ないかもしれまん。が、緊急性が薄れてくれば、そうはいきません。極端に言えば、利益誘導がうまい現場は得をし、国や行政にコネクションがない現場は放っておかれる結果になるはずです。

 

オリンピックの強化費に国費を投入するのは不公平、という考え方

では、いったん震災の話題から離れます。もう少し日常的な例で、スポーツの寄付について見てみたいと思います。

山内代議士が、オリンピック選手の強化に国費を投入することに反対の論陣を張っている。

もっともな意見だと思う。
オリンピックの強化費に国費を投入するということは、柔道には強化費を出すのに剣道には強化費が出ない、テコンドーには国費投入があるのに空手には国費投入がない、卓球には強化費が出るのにソフトボールには強化費が出ないということだ。

スポーツの振興は大切だし、国民がオリンピックでの日本選手の活躍を望んでいるのも事実だろう。しかし、だからといって政府が公費を投入して選手を強化するのはおかしいのではないか。
むしろ、国民がスポーツ振興のために寄付をしたら税金面での優遇が受けられるような制度にしておいて、どのスポーツにいくらお金がまわるかは、国民にお任せをするべきだろう。

河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり』より

 

また、オリンピックの種目になっているスポーツにお金をかけるのは、オリンピック種目以外のスポーツとの公平性の問題もあると思います。オリンピック種目の柔道は強化に補助金がたくさん出て、剣道や弓道には補助金はつかない、というと何となく不公平な気がします。スポーツ振興全般にお金をかけることは問題ないとしても、オリンピック種目だけを特別視することには疑問を感じます。

山内康一ブログ「蟷螂の斧」より

例えば、自分が応援しているプロ野球チームや、Jリーグチームが、資金難で消滅してしまうとなったら、どうでしょうか? 芸術でも、音楽でも、サブカルチャーでも、自分が本当に好きな対象が、本当に切羽詰まってお金を必要としているとわかれば、望んで寄付するはずです。

一方で、国がスポーツに(私たち国民の税金である)お金を投じるのは、何か釈然としないものが残ります。オリンピック種目であれば、まあ大目に見てもいいかな、という人は少なくないと思いますが、例えばプロ野球チームに税金が投入されれば、間違いなく非難囂々です。「応援している人がお金を出せばいいじゃないか、私は野球には興味がない」と思いますよね。

もちろん、お金を投じる基準もよくわかりません。野球には税金を使うのに、サッカーには税金を使わないとしたら、何かしらの利益誘導があったと勘繰るのが普通でしょう。

だったら、国に納める税金はなるべく減らして、その分を自分が応援するスポーツやカルチャーに寄付したほうがいいと思いませんか? 河野太郎議員や、山内康一議員の主張を要約すれば、寄付しやすいように税制を整えましょう、ということです。

個人的には、応援したい人がお金を出す方向性に、どんどんシフトしていくべきだと思います。応援する人のいない競技を税金で助ける必要性があるようには思いません。もちろん競技をやる側は、面白い競技を見せ、競技以外の場でもファンを獲得する努力をし、「お金が必要だ」と明確に発信する必要がありますが、それが健全な姿ではないでしょうか。

 

寄付とは、必要なところへ資源を届けるシステム

いよいよまとめに入りたいと思います。

震災時の例からは、二つの結論が見えてきました。一つは、寄付やボランティアがあったからこそ、国や行政の手が回らない部分を補えたという事実。もう一つは、もし寄付がなかったとしたら、利益誘導ができるか次第で、恩恵に預かれるかどうかが決まる問題点です。

スポーツの例では「応援したい人がお金を出すべきではないか」との問いを立てました。税金を投入すれば、やはり震災の例と同じように、利益誘導が大きな問題点となります。

もうお気づきだと思いますが、寄付とは、お金を必要としているところへお金を届ける仕組みです。しかも自分が応援したい、支援したいと思った対象に、ダイレクトに届けられる点で、国や行政を経由させない決定的なメリットがあります。

 

寄付文化が根付けばソーシャルイノベーションが圧倒的に加速する

寄付の多くは社会貢献の文脈で語られるケースが多いわけですが、これは間違いではないにせよ、ミスリードだなと思います。

善いことだから必要なんですよ、じゃ、誰もお金を出しませんよね。

経済成長を前提とした旧来的社会システムが限界に達し、日本社会のあちこちに歪みが現れているのは、誰もが認めるところだと思います。とても国や行政だけでは対処できず、個人やNPOの役割は大きく増しています。

ところが問題なのは、何かに取り組むためにはお金が必要だということです。

日本に寄付文化が必要な理由は、お金を必要としているところへ、お金を届けるためです。国や行政や大企業では手が届かない、ローカルな課題であったり、セクター間の狭間の課題であったり、マイノリティな課題に取り組むために、資金が必要なんです。

「やります!」と手をあげた個人を、気軽に応援できる社会になったら、ソーシャルイノベーションは圧倒的に加速するに違いありません。

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