いま私たちは “思考停止” とどう向き合うべきなのか

最近、気になるやりとりを2つ続けて目撃しました。

一つは、電子レンジに発がん性があるという記事を引用した、脱電子レンジ論。もう一つは、「インフルエンザワクチンは打たないで!」という記事を引用した、ワクチン不要論です。

どちらも、専門家ではなく、一般人の発言でした。

この際、論の妥当性については触れないでおこうと思います。電子レンジを使用しようがしまいが、ワクチンを接種しようがしまいが、個人の選択の自由の範囲だと考えるからです。

何が気になったのかというと、どちらも、「よくわからないけど(根拠は確認していないけど)直感的にこうしたほうがいいと感じる」というスタンスの発言だった事実なんです。

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論理的・科学的思考を放棄する、という選択肢

脱原発支持者の中には、荒唐無稽な陰謀論をまじめに表明する人が存在します。少量の放射線のリスクは少ないと語る学者を見つけると「電力会社から金をもらっている」、震災瓦礫を広域処理すると聞くと(どんなに線量が低いと説明されても)「国や行政は信用できない」などと語る人々です。

これはネット上では一般的に “放射脳” と呼ばれ、不都合な事実を否定し、持論を補強するために、都合のいい解釈をする人々とされています。

一方で、別の見方をすれば、論理的・科学的思考を放棄した人々とも言えます。「わからないなら徹底的に調べる」ではなく、「わからないから怖いという直感に従い、直感にあった事実のみ受け入れる」というスタンスであるわけです。

よくよく考えてみると、脱電子レンジ論とワクチン不要論も、同じ構造です。電子レンジを工学的に調べてみたり、ワクチンの仕組みを理解しようするのではなく、自身の直感を信用しようとします。

 

思考停止はありふれた選択肢となるのではないか

科学技術が発展し、世の中の仕組みが複雑になり、情報量が圧倒的に増えた現代では、安定した日常を手に入れるために “思考停止” という手段を選ぶ人が増えている実感があります。

全てではなくとも、理解の範疇を超えていると感じる分野では、深く考えるのを止めるのが一般的です。

すでに我々は、手元にあるスマートフォンの仕組みなんか、誰も理解していません。どうしてタッチパネルが動作するのか、説明できる人がどれくらいいるでしょうか。

この傾向は、この先もどんどん強まるはずです。なぜなら、世の中が便利になればなるほど、一部の詳しい知識を持った専門家と、テクノロジーを享受する大多数の消費者とに分かれていくはずだと想像するからです。

様々な知識レベルの人がいて、論理的・科学的思考が得意な人とそうでない人がいます。

論理的・科学的思考に慣れている人は、もちろん、論理的・科学的思考をベースに考えるでしょう。

一方で、けっして無視できない一定数の論理的・科学的思考を苦手とする人たちは、論理的・科学的思考を放棄します。

スマートフォンの仕組みを深く考えないように、電子レンジの工学やワクチンの仕組みも深く考えないわけです。

何か不安があったときに、安定を手に入れるために直感のみを信じるという選択は、ありふれたものになるのではないでしょうか。

 

結局なにを信用するのかの違いでしかない

では私たちは、こうした思考停止と、どう向き合っていくべきなのでしょうか。

一般的には、思考停止は悪い態度だと考えられています。「考えればわかることだから」と諭そうとする人もいれば、「ちょっとそういう人とは付き合いたくない」と避ける人もいます。

私もこの点でもやもやしていたからこそ、脱電子レンジ論とワクチン不要論が気になったのだと思います。

現時点で私は、「手に負えないのなら、自分の直感を信じる」という選択は、それほど悪いことではないのではないか、という印象を持っています。

歴史的にみれば、思考停止は宗教が担ってきました。理解できない現象、制御できない要素については、神や仏を頼ってきたわけです。

現在でも、占いやパワースポットに夢中になったり、著名人の考え方に心酔する人は、けっして少なくありません。

そう考えていくと、科学的に間違っていたからと言って、電子レンジやワクチンの見解の違いで、彼らを否定するのは少し違うのではないかと思うんです。

※電子レンジを使うかどうか、ワクチンを接種するかどうかは、人が死ぬような問題ではないという点も大きいですね。社会的に悪影響になるような問題も存在しますが、それはケースバイケースです

安心するためになにを信用するのかの違いで、それが科学的思考なのか、宗教なのか、自分の直感なのかというだけです。

 

“正しさ” とは主観的なものである

例えば、文明を自ら捨てて、自然に従って生きる人々を、「奇特だな」と思うことはあっても、「あいつらは間違っているから根絶やしにしてやる」とは思わないはずです。

“正しさ” とは主観的なものです。科学的に間違っていたとしても、自分らしく穏やかに生きるためには、それが正解だと言うこともあり得ます。

脱電子レンジ論とワクチン不要論を語った人たちは、共感を求めていたように感じました。実際、コメントを寄せる人の半数程度は、「私もそう思っていた」という人たちでした。

似た考え方を持った同士が、寄り添って、グループをつくる。異なった考えを持ったグループ同士で、尊重しあう。多様性のある社会が生まれる。

そんな未来が理想なのかもしれません。

正直、まだ完璧に割り切れているわけではありません。

ただ、科学的正しさを信じる人と、科学的思考を放棄する人の衝突は、現に起きており、これからも増えこそすれ、減ることはないはずです。

じっくり時間を掛けて向き合っていきたいテーマです。