Disney / Pixar『インサイド・ヘッド』レビュー|物語の柔軟性を犠牲に生み出された、誰も見た経験がない新世界

試写で字幕版、プライベートで子どもたちと日本語吹き替え版を見ました。

個人的な満足度は、60〜70%。

鑑賞し終わって真っ先に思ったのは、『トイ・ストーリー』3作の偉大さで、『インサイド・ヘッド』には違った良さがあるけれど、つまるところ「私は良い鑑賞者ではなかった」、という結論になるんでしょうか。

 

推測可能なストーリーを、どう評価するか

作品情報にあるとおり、頭の中の司令部から、ヨロコビとカナシミが放り出されてしまうわけですが、もうこの時点で、司令部へ帰ることがメインストーリーだと、明確になります。

脳内を忠実に再現した世界を舞台にしている以上、それ以外の選択肢は、あり得ません。

しかも、帰路もはっきり提示されていて、これから起こるだろう障害も、早い段階で明確になります。

加えて言えば、障害が何回起きるかもわかるし、いよいよ司令部に到達できるタイミングがいつなのかも、簡単に推測できてしまいます。

すると、どんなにキャラクターが魅力的で、道中に驚きが満ち溢れていても、まどろっこしさが拭えない。

吹き替え版を一緒に鑑賞した妻は「カナシミにイライラした」と言っていました。

ストーリーが一本道で予測可能だからこそ、ウジウジした性格や、足を引っ張る行動が、“引き延ばし” のように感じてしまう。

本来は、カナシミのキャラクターを印象づけたり、カナシミの存在理由を深掘りする、重要な描写・エピソードたちです(その役割をきちんとこなすためには、違和感やストレスがあってはならない)。

 

ストーリーの柔軟性を犠牲に生まれた、まだ誰も見た経験がない新世界

『トイ・ストーリー』3作は、無類のストーリーを持つ、傑作映画です。

物語は、違和感なくよく作り込まれており、鑑賞者の多くが、キャラクターの個性を理解しながら、展開にのめり込んでいきます。

一度ならず、二度三度、いや何十回見返しても、「よくできている」と感心するしかありません。

物語には「型」があります。おもしろい形式は、決まっていて、長い文化史の中で探し尽くされています。

そんな歴史の中で見ても、お手本と言っていい傑作映画が、『トイ・ストーリー』3作です。

もし大衆小説を書きたい人がいたら、『トイ・ストーリー』の骨組みを丸々コピーして(もちろんまったく違うキャラクターで)書いてみてください。

描写力が備わっていて、キャラクター造形さえ間違えなければ、確実におもしろい小説になります。

それと比較してしまうと『インサイド・ヘッド』は……いや、物語の出来が『トイ・ストーリー』レベルでなくてもおもしろいく感じるピクサー映画はいくつもあるので、比較するのはお門違いなんでしょう。

ピクサーは『インサイド・ヘッド』で、正真正銘、今までに誰も見た経験がない世界を描写してみせました。

得るものがあれば、失うものもある。ストーリーが硬直的になってしまう制約と引き替えに、ピクサーらしいクリエイター魂を貫いたのかもしれません。

 

さすがピクサーと言える、人格形成や感情の動きの正確な描写

劇中で描こうとしていることそのものは、新時代に突入したディズニーの新テーマ「ありのままで」であり、とても共感できるものです。

『アナと雪の女王』、『ベイマックス』、実写『シンデレラ』と続くラインを、ピクサー・アニメーション・スタジオも(意図的ではないかもしれませんが)踏襲しました。

キャッチフレーズは「なぜ、“カナシミ”は必要なの…?」ですが、感情を排除または抑圧しようとすれば、どんな影響になるか、心理学や精神医学の専門書を読まずとも、誰にでも想像できます。

たとえば、お父さん、お母さん。子どもに「男なんだから泣くな」と、つい言っていませんか。

科学的に考えれば、こんな理不尽な理屈もないですよね。性別によって、感情抑圧への耐性が決まるわけではありません。

悲しい気持ちになったとき、人は何を求め、本当はどうしてほしいと欲しているのか。

『インサイド・ヘッド』は、そんな当たり前の事実を、これ以上ないくらいの美しい映像と、正確な描写で教えてくれる映画です。