子育て

281月

親業=大混乱|子供を叱る難しさについて!

論理的に考えるのは苦手なほうではないはずなんですけど、自分の叱り方が本当に正しいのか、大混乱に陥ることがしばしばあります。(^^;)

うちには春に4歳になる長女と、1歳の長男がいます。

まあこれが、すでに大喧嘩するんですよ。

単に、「上の子が下の子をぶった」というだけなら、叱るのは簡単ですよね。

気に入らないからってぶつのはいけない! で解決します。

でも、長男は1歳なので、たいていは喧嘩の原因をつくります。例えば、お姉ちゃんが遊んでいるオモチャをいきなり持っていってしまったり、電車を走らせているプラレールの線路を壊してしまったり。

こういうとき、もちろん長男を叱ります。が、(叱る意味はあるんですが)効果はありません。やめなさいと言われて「はい、わかりました」となるには幼すぎるんです。

長女が4歳に近づいてきて、やっとできるようになってきたことを、1歳の子に求めるのは酷というもの。癇癪を起こして、プラレールの線路はより無残な姿になってしまいます(この点、長男はファイターなんですよねー。おお、ようやる……と感心してしまうほど、負けん気を発揮します)。

そりゃ長女も怒るんで、押し倒したり、ぶったりする結果になります。長女にも、口で言いなさいとは言っているんですが(実際に「やめて」「壊さないで」とまずは口で言います。えらい!)、言っても聞かないので、最終的には手が出ます。

結局、1歳の長男には「壊しちゃったら遊べないでしょう」と言い聞かせ(大泣き)、もうすぐ4歳の長女には「今のはえいくん(長男の通称)が悪かったね。でも、ぶつのは悪い」と叱ることになります(やっぱり大泣き)。

これだけでも子供を叱る大変さがわかると思うんですが、大問題なのは一部始終を見ていなかったときなんです。

例えば夕飯を作っていて、なんだか子供が泣き出した。書いてきたとおり、下の子が泣いているからと言って、上の子が悪いと決め付けるわけにいかないんですね。場合によっては、下の子は特に夕方は機嫌が悪いんで、単にお腹を空かせて泣いているだけかもしれないという罠もあるわけで。

叱ってしまってから、(あれ、違ったかな……?)と気づいて、理由を聞いて叱り直すこともしばしば。(^^;)

このあいだなんか、夕飯を作っていてふと見たら、長女が床でぴちゃぴちゃ水遊びしてるんですよ。この忙しいときに! とカチンときて叱ったら、コップの水をぶちまけたのは1歳の長男だったらしく、「水をこぼしちゃったのはえいくんが悪いね。でも、お水はどこで飲むの? そう、椅子に座ってテーブルの上ね。」と叱り直すハメに。

いやー、親業ってつくづく「混乱」と同義だと思うんです。様々な出来事が同時に起きるし、どんなに忙しくても待ってはくれないし。かと言って、叱り間違えるわけにはいかないし。

こっちも人間なんで、感情に左右されることもしょっちゅうなんですが、ただ、子供から見て「わかってくれない親」にだけはなりたくないんですよね。

日々修行だなぁと思わずにはいられません!

241月

僕は子供たちに「大人が本気でふざけて遊ぶ姿」を見せたい。そうじゃなかったら、どうやって遊び方を学ぶんだろう?

あなたは親として、子供に何を一番伝えたいですか? どんな背中を見せたいですか?

嘘をつかないこと。他人への思いやりや、礼儀正しさ。仕事に打ち込む姿……価値観は様々です。

二児の父である僕は、大人が本気でふざけて遊ぶ姿を見せたい

何か一つ選べと言われたら、僕個人としては、これで決まりです。

 

個人的にとても貴重な経験ができた「学校で学べないことを学ぶ学校」

僕はどこかで学んだわけでもないのに、子供との接し方がわかります(戸惑った経験がない、の意)。

理由を考えてみると、たぶん一つは母親が素晴らしかったからです。二児の父になった今、思い返しても、(まあ親子関係なので、気に入らないところがないわけじゃないですけど)母の子育てへの献身、子供への尽きることのない愛情は、尊敬せざるを得ません。

もう一つの理由は、小学生の頃からボーイスカウトのような団体に参加していたからです。ボーイスカウトと言っても、もっとローカルな、地元の教育者のネットワークで出来上がった、「学校で学べないことを学ぶ学校」でした。

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当時(15年〜20年前)の写真を引っ張りだしてみたんですけど、中心的な活動は、静岡県の大井川での夏キャンプ。

山間に広大な河原が広がっているこのあたりは、『鵜山の七曲り』と言って県の天然記念物に指定されていて、圧倒的に素晴らしいところです。自分の子供たちを連れて、今でも遊びに行きます。

 

お兄ちゃんお姉ちゃんたちが、互いに川へ突き落とし合っているのを見るのが、何よりも楽しかった

小学生のうちはお兄ちゃんお姉ちゃんに「連れて行ってもらって」いたのが、高校生になると「子供たちを連れて行く」運営側に回るシステムになっていて、成長すればするほど役割が変わり、責任が重くなります。

様々な視点からコミュニティを見ることができ、また大人子供問わず世代を超えた人間関係があるので、さすがにこの場で学んだ経験は大きいものでした。

何が楽しかったかと問われれば、真っ先に思い浮かぶのが、川に突き落とす “遊び” です。いい大人が年齢も性別も関係なく、本気で追いかけ、本気で逃げる。ときにはコッソリ相談しあって作戦を練るようなことも。不意打ちが成功すれば、みんなで大笑いする。

大人が本気で遊び始めると、子供にとってはスケールが大きすぎて、ただ見ているだけになります。

でも子供心に、ただ見ているのが、何にも代えがたいくらい楽しかったし、とても興奮したのを覚えています。

 

遊び方を知らない親は、独力では「遊び方を知らない人間」しか育てられない

子供は、見て学びます。自分の感性と、お手本を組み合わせて、遊び方を学んでいくんです。

特に幼少期、子供のお手本になるのは、親になるケースが多いはずです。小学生くらいになっても、やはり常に一緒にいる親からの影響は受け続けます。

子供は本来、天才で、オモチャを買って与えなくても、新聞や段ボールで遊びを創り出します。散らかるから止めなさい、と子供の才能を潰しに掛かるのは、親以外の何ものでもないんですよね。

遊び方を知らない親の元で育った子供は、学び取るお手本もなく、自らの才能も殺され、遊び方を知らない人間に育つ以外にないはずです。

 

現代社会では、子供が学べる環境を探す努力をしたいと思う

夏キャンプで、お兄ちゃんお姉ちゃんの本気の悪ふざけが本当に楽しかった僕は、中学生くらいからもう、大人たちを相手に川落としで遊ぶようになっていました。

もちろん、やってやられてが楽しい(いや、やるほうが圧倒的に楽しいけど!)という理由もあったんですが、何よりも大きかったのは、「それがこのコミュニティの醍醐味だ」という直感です。みんな、楽しんでくれるに違いない、と。

目の前にお手本があったからこそ、僕は遊び方を学べたんです。

でも、昨今の世の中じゃ、「危ないからダメ!」の一言で終わりにされそうですよね。

実際、教育機関でこうした悪ふざけを推奨するのは、不可能でしょう。親や社会の要請に応えることも、教育機関の役割だからです。

もし、子供を「遊び方を知らない人間」に育てたくないなら、学校で学べないことを学べる環境を探す努力が必要なのだと思います。

遊び方を知らない自覚があるのなら、なおさら。僕も、ほとんど忘れちゃってるなー、という感覚が強いので、積極的にアンテナを広げています。

asobi基地なんかは、だからこそ見つけられた空間ですね。

 

遊び方を知っている人間のほうが素敵じゃない?

遊びが創造性や自主性を育むかどうか、僕は専門家ではないので、理屈はよくわかりません。

ただ、遊び方を知っている人間のほうが素敵だと思うわけです。この直感を信じて、子供たちには、大人が本気でふざけて遊ぶ姿を見せたいと思ってます。

同級生たちにも子供が生まれているので、まずは彼らと何かできないかなーと悪巧みしてます。将来的には、「遊びフューチャーセンター」みたいな活動にしていきたいですね。

151月

子供の多様性の行方。保育園で見たのは「異様な光景」か「ベストな方針」か

いつもの風景

保育園のイベントへ行くと、子供たちの作品が並べられている。でも、みんな同じに見える。作った本人(3歳の娘)でさえ、名札を確認しなければ、ときには区別がつかないくらい似ている。

卵パックで作ったワニ、段ボールで作った携帯電話、新聞紙と毛糸で作ったカレーライス等々。

色を塗ったり、シールを貼ったりは、確かに子供の自由だ。各作品にオリジナリティがあるのは間違いない。娘に「これ、作ったんだよ」と言われれば、純粋に一つの作品に対する評価ができるので、「おぉすごいね!」と心から言える。具体的に僕自身がなにかに困っている、というわけでもない。

 

ミッキーマウスやキリンを作ったら絶賛してあげるのに

でも、先週の金曜にカナダ・トロントの視察報告会へ行き、「多様性」というテーマを意識するようになった。トロントでは子どもの個性が最大限に尊重され、子どもそれぞれが持っている力を、のびのび発揮できるような教育がなされている。自分がやっている、あるいは目指そうとしている子育てはこれだな、と感じた。

トロント子育て支援視察報告会|『asobi基地』小笠原舞さん、小澤いぶきさん

すると……部屋に入ったときにまったく区別が付かない作品が子供の数だけ並べられているのが、ものすごく異様な光景であえるように思えてきた。

例えばお正月というテーマで何か制作するとして、全員にまったく同じ形の凧を作らせる必要はないのではないか。子供一人ひとりの多様性を尊重するというのなら、クレヨンでつける模様だけの自由でなく、独楽や羽子板を作らせてあげる自由を与えてもいいのではないか。

いや、まったくお正月に関係ない、お好み焼きや、ミッキーマウスや、動物園のキリンを作ったっていいと思う。みんながお正月らしい何かを作る中で、うちの娘だけがキリンを作ったら、偉業だ。必ず絶賛してあげるのに。

 

子供の可能性を殺しているのは大人であり社会

親の多くが知らないだけで、子供は偉業の塊だ。放っておけば、どんなものでも遊びの道具にするし、どんな些細な出来事でも大笑いできる。「そんなもので遊ぶのは(汚いから、散らかるから、つまらないから)やめなさい」と子供の能力や可能性を制限しているのは、大人以外の何者でもない。

とはいえ、一方で、全く同じに見えて安心する親が少なからずいるだろうな、というのもよく理解できる。別の言い方をすれば、自分の子の作品が、他の子の作品に劣っていなくてホッとするのが、日本社会の大勢を占める価値観ではないか。

だから、保育園が悪いのではない(実際、いい保育園だと思う。むしろ、感心させられることのほうが多い)。親や社会のニーズに応えているだけなのだから。認可保育園では、マジョリティを無視するような方針は、無謀以外の何ものでもないはずだ。

 

何を得て、何を失うのか

答は出ない。

異様な光景だと感じる一方、保育園にしてみれば(実情を考慮すれば)ベターな方針だとも思う。

それに個人的には、多様性を育くむ教育を行ったとして、何を得るのかはっきりとはわかっていない。そして何を失うのかも見えない。震災があっても略奪が起きない国民性は誇るべき、と多くの人が考えているんじゃなかったか。ただ、多様性を育む教育のほうが好きだな、という感想が現時点でのすべてだ。

我が家の場合は、子供の多様性を伸ばす子育てをする時間的余裕もある。やりたければ、やればいい。僕はそのためにフリーエージェントになった(妻は元々、実家の自営業の手伝いなので、ある程度の自由がある)。でも、フルタイム&共働きの家庭はどうなるんだろう。最大公約数の教育のみを受けていたら、きっと子供の多様性は殺されるのだから。

131月

僕ら親は、体罰を否定するんじゃなく、どんな状況でも力強く生きられる子供を育てよう。

久々にすげーものを見てしまった。テレビ朝日『サンデースクランブル』。

戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏が「多くの体罰が行われてきたのに、その子だけ自殺した。自殺した生徒に問題があった」という主旨の発言をしました。

戸塚ヨットスクール校長「(自殺した)生徒が一人だけということは、自殺した生徒に問題がある。体罰が原因かはわからない」 : はちま起稿

最後まで聞いていた印象では戸塚氏には、生徒の自殺問題が起きたときに、原因を「体罰」へ矮小化するマスコミへの反発があった様子。つまり、教師と生徒の関係や、体罰のやり方や、教育システムや、様々な問題があって起きたはずの事件なのに、体罰を止めさえすれば解決する、とでも言わんばかりの風潮に辟易していた様子です。

とは言え、「生徒に問題があった」は、言葉足らずにしても行き過ぎですよね。言うまでもなく、「生徒に個性があり、その個性を教師が見抜けなかった」がより正確な表現のはずです。

まあ、いいんです。戸塚氏について何かを語るつもりはありません。

ただ、僕には3歳と1歳の子供がいます。子育て中の親として考えさせられました。世の中には様々な価値観があり、色々な教育者がいるんだなと。

子供たちが成長し、小学校へ入れば、様々な教育者の元で成長していくことになります。個人的には、そこで体罰が行われるかどうかは、あまり気にしていません。心の底から信頼できる教師なら、体罰があっても別にいいと思います。なぜなら、体罰をせずに子供をダメにするのも、実はとっても簡単だから。

つまり気にすべきは、教育者が、熟練の方法論を持ったプロフェッショナルかどうかです。

現実的には、尊敬に値するプロフェッショナルな教育者には、出会えない可能性のほうが高いような気がしています。少なくとも、ある程度は運に頼らざるを得ないはずです。

であれば、親がすべきなのはただ一つ、子供たちを、どんな状況でも力強く生きられる人に育てること。

力強くというのは、耐えるだけじゃないですよ。勇気を持って逃げるでもいいし、空気を読まずに我が道を行くでもいい。とにかく、環境に左右されずに、ちょっとくらい障害物があってもへっちゃらで生きていけるように、子供の個性を見ながら、育てていきたいと思います。

社会や教育のシステムに無防備に任せるなんて、僕には怖くてきません。

世の中のお父さん、お母さん。教育システムが、体罰が、と周囲に文句付ける前に、まずは自分の子育てからだよ!

81月

子育て中の両親には「仕事量半分」で働ける権利を。

こんにちは。寄金です。僕には3歳と1歳の子供がいます。子供たちが大好きです。

ざっとライフサイクルを書いておくと、朝は4時〜5時に起床します。

できる限り、外部サイトへの寄稿記事や、ブログ記事を書き、6時過ぎに妻と子供たちを起こします。

みんなで朝食を食べ、保育園と仕事へ送り出し、また作業を再開します。

外出の用事がなければ、17時くらいには仕事を中断して、夕飯の準備に取りかかります。

実は我が家は8人と4匹の大家族なんですが、全員分を作ります。

妻が子供たちを保育園から連れて帰ってくるのが18時半。

夕飯を食べ、子供たちを風呂に入れ、寝かし付けながらそのまま一緒に眠ってしまいます。

就寝は21時〜22時くらいですね。

睡眠不足には弱いので、6時間は眠れるように調整して、翌朝4時〜5時に起床という感じです。

 

朝4時起床〜21時就寝で、子供最優先に生活している理由

なぜこんな生活をしているかというと、第一に、やりたいから。

好きこのんでやっているという面が一番強いです。

第二に、幼少期はその子の人生のある一部分を決めてしまうから。

自分自身を振り返っても(ま、記憶があるわけじゃないですけど)、小さい頃に目一杯甘えられてこそ、立派に自立できるんじゃないだろうかと思っています。

少なくとも小学校に入るくらいまで、できれば中学校へ行くまでは、子供たち最優先でいたい。

 

「共働き」かつ「フルタイム勤務」は、子供を犠牲にしなければ成り立たない

第三に、こうでもしなきゃ、共働きでは物理的に無理があるから。

我が家の場合、妻が実家の自営業の手伝いをする必要があるので、仮に僕の年収が3,000万円だったとしても、共働きになります。

共働きの場合、フルタイムで正社員として働きながら子育てなんて、不可能ですよ。

無理矢理やっている人はいますが、それは泣く泣く犠牲を払って成り立たせているだけです。

例えば現在、うちの子供たちは21時過ぎには就寝しています。

朝6時過ぎ起床を考えると、睡眠時間8時間以上を確保するためにギリギリのラインです。

が、これは妻と子供たちが18時半に帰宅した時点で、夕飯の支度がととのっているから可能です。

もし僕が東京で働く正社員で、残業と通勤時間を含め帰宅が21時頃だったとしたら、妻は一人で夕飯の支度に取りかかることになります。

どんなに頑張っても30分以上はかかり、食べ終えたときには20時を過ぎているはずです。

これでは、子供たちを風呂に入れている間に21時は回ってしまいます。

ついでに言うと、夕方の子供たちは眠かったり、お腹が空いていたりして機嫌が良くありません。

特に1歳の下の子は、僕が炒め物など夕飯の仕上げをしていると、足にかじりついて泣きわめきます。

これじゃあ危なくて炊事ができないし、泣き叫ばれるのはかなりのストレスです。

多少は何か食べ物をあげるんですけど、あんまりあげ過ぎると夕飯を食べなくなるんで、たくさんはあげられません。

こんな状況の中で、一人で夕飯の支度をするのは、すさまじい負担。

イライラして怒鳴り散らす事態になるか、子供たちに我慢させるか(泣いても無視していれば、泣かなくなります。サイレント・ベビーですね)。

どちらにしても、子供が受ける影響を考えれば、好ましい状態じゃないですよね。

 

精神論では何も解決しない

子育ての経験のない方は「そんなん子育てしていたら当たり前だろ」と言うかもしれません。

が、これは精神論で何とかなる問題じゃない。

例えば妻は、今年の抱負で「できる限り子供たち怒らないようにしたい」とブログに書いていました。

怒りたくて怒っているんじゃないんです。

うちの妻は、先ほど触れたとおり実家の自営業の手伝いをしていて、割と働き方に自由があります。

それでも疲労とストレスで、常にギリギリの状態にあって、感情のコントロールが限界を超えてしまうケースが多々ある。

僕は「親はそれくらいできて(できなくてもやって)当然」というスタンスでいますけど、(僕も含め)現実問題としてどうにもならないことがあるわけです。

精神的な強さだったり、積み重ねてきた経験であったりは、もうその時点で持っているものでやるしかないわけです。

昨今、親が子供を放置したり、虐待したりして殺してしまう事件が報道されます。

そのたびに世間は強烈にバッシングするわけですが、僕も妻も、環境によっては誰にでもあり得るよね、と思ってます。

特に一人目の子供が3歳になるくらいまでは、未知の体験の連続で、信じられないくらいのストレスでした。

新生児の頃はとくに、なんで泣くのかわからない、どうしていいのかわからない、おまけに極度の寝不足(昼夜問わず、約3時間ごとに授乳)と、極限にまで追い詰められます。

親だからやって当然、は心構えとしてはその通りです。

が、「子育てはそういうものだから」「昔からそうだから」の一言で困難な状態を放置するのは、思考停止以外のなにものでもない、というのが持論です。

社会の仕組みとして改善できるのであれば、改善すればいいんです。

 

子育て中の両親に、労働時間を半分にできる権利を。

現実問題として無理じゃん、という意見は当然出てくるんですが、ここではいったん置いておきます。

重要なのは、どんなに現実離れしていてもいいから、理想の状態を思い描くこと。

なぜなら、制約の中でどうこうしようと足掻いても、いい案は生まれてこないからです。

もし、理想像が魅力的なものなら、賛同する人が集まります。

人が集まれば、じゃあどうやって高いハードルをクリアして行こうかと、行動に繋げられます。

物事を動かす何かのきっかけになるかもしれません。

僕は、子供をだっこしてゆっくり会話する時間を確保するために、子育て中の両親には、仕事量を半分にできる権利を与えるべきだと思います。

理由は書いてきたとおり、子供を犠牲にしなければ仕事と子育ての両立は不可能だからです。

半分の労働時間で得た収入では足りない分は、(上限を決めて)補助すれば、最低限の生活も確保できます。

財源は悩ましいところですが、ひとまず置いておきます。

 

みなさんはどう思いますか?

少なくとも、現在の「子育てと仕事の両立」は、何かしらの犠牲の上に成り立っている事実は、疑う余地がありません。

その犠牲を許容できる人、できない人と、様々な価値観があるわけですが、犠牲を少なくできるとしたら、その方向性に反対する人は少ないはずです。

問題は方法ですよね。

どうやって無理なく両立させるのか。

どんなブレイクスルーが必要なのか。

例えば、子供が生まれてから10年間、仕事の面では何かしら妥協するとします。

僕の案は労働時間半分ですが、これは雇用主にとっては労働力が中途半端に減るわけで、頭の痛い問題になるのは想像に難くありません。

だとしたら、10年間一切仕事をしないという方法もあるかもしれません。

ただ、この場合、再就職が高いハードルになりますし、一切仕事をしなくなるとスキルも劣化します。

みなさんはどう思いますか? 子育てに後悔しないために、どんな働き方がしたいですか? TwitterやFacebookで、ぜひ意見を聞かせてください!

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